アン・モロー・リンドバーグ「翼よ、北に」

みすず書房
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ブクログで、何かの本で同じような評価をしている人の本棚を覗かせてもらったら、面白そうな本がいっぱい!ということで、参考にさせてもらった本の1冊が、今回の「翼よ、北に」。

本書は、著者のアン・モロー・リンドバーグという女性が、夫の操縦する飛行機に乗って、ニューヨークからカナダ、アラスカ、シベリア、千島列島、日本、中国と飛行する記録本。

ただ、これだけのの情報ではなくて、もうちょっと時代背景を知っておいた方が良かったみたいで、途中で後ろの「訳者あとがき」を読んでから、ぐっと面白さが増した。
第二次世界大戦の前の話で、夫のチャールズ・リンドバーグがいかに有名な人であったのか、その当時において女性が飛行機に乗ることが稀だった上に、まだ1才の子供を置いての飛行となったこと、そういったことを知ってから読むのとでは、まったく意味合いが異なる気がする。

当時なんて、まだ日本は未開のイメージも強かったかもしれないけれど、非常に友好的に描かれていて、日本人としてはちょっと嬉しい。
また、女性の地位が決して今のようでなかった時代に、ちゃんと無線の勉強をして夫の飛行調査に同行する、と聞くと、強い女性のようなイメージを持ちがちだけれども、彼女は決してそうではなく、はしばしに自信のなさもうかがえて、そういう意味でも共感が持てる。

以下、いくつか印象的だったところの抜粋;

出発前のディナー・パーティーにて

「あなたの飛行計画ですがね。私だったらをそんな所に連れていくことはしないでしょう。ミセス・リンドバーグにしたって―」
 わたしは、エレベーターに乗ったわたしを見て、男たちがいっせいに帽子を取った、あの初めてのときのような、奇妙な晴れがましい思いでこの言葉を聞いていた。(あのとき、十五歳だったわたしは、この自分がついにそういう日を迎えたのかと信じられない気持ちだったのだが)。
「忘れないでいただきたいですね」と夫はわたしの方に微笑を送って、やり返した。「乗組員クルーなんですから」
 わたしはいっそう晴れがましい気持ちになった。(これって、男の人たちと同等に肩を並べているってことを公認されたようなものじゃないかしら?)

p59

これに表れているように、夫は終始、包容力があって、固定概念にとらわれていない素敵な人に描かれている。そこから見える彼女への信頼感がうかがえて、こういう夫婦関係だったから、狭い飛行機の中で二人だけの飛行が遂げられたのだろうな、と思った。

次はカムチャッカにて。そこでモスクワから来たというロシア人の動物学者の女性と、カムチャッカのわな猟師の妻との交流より。
当時、ロシアはソ連で、著者をはじめとしたアメリカ人はちょっとした偏見を持っていた。共産党の国で、指導原理を何よりも重んじており、人間関係は取るに足らない問題として軽視しているという先入観を持っていた。

 翌朝、動物学者はわたしに、モスクワに小さな男の子を残してきたと言った。わたしは、自分も小さな男の子をアメリカに置いてきたと言った。「いくつですか―あなたのお子さんは」「彼はどこにいますか?」そんなやりとりの後、動物学者とわな猟師の奥さんはひとしきりロシア語で話しあっていたあげくに、一人がとても恥ずかしそうにきいた。「あのう―写真-ありますか?」わたしは手持ちの写真を撮りだした。「まあ、かわいい!」
 二人とも、とても陽気な、愛すべき人たちだった。彼女たちは写真をテーブルの上に残らずひろげた。わな猟師の奥さんは両手で大きな輪を描き、「お宅のお子さん、とても目が大きい」という意味を伝え、そのうえで彼女がいちばんいいと思った写真を指さした。それからほかの写真を眺めてもう一度、指さした。「この写真、お母さんにそっくり」「こっちはお父さんにそっくり」
 彼らの家を辞したとき、わたしはわたしの坊やがずっと近くにいるような気持ちになっていた。あの人たちに写真を見てもらったり、あの子のことが話題にのぼったりしたからだった。動物学者である、あの女性にしても、自分の子どもを身近に感じていたのではあにだろうか。彼女はわたしに東京で投函してくれと言って、モスクワにいる子どもへの手紙を託した。

p144

最後に、少し長いけれども、「さよなら」という言葉についての賛辞がうれしかったので引用。

「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉をわたしは知らない。Auf WiedersehenやAu revoirやTill we meet againのように、別れの痛みを再会の希望によって紛らわせようという試みを「サヨナラ」はしない。目をしばたたいて涙を健気に抑えて告げるFarewellのように、別離の苦い味わいを避けてもいない。
 Farewellは父親の別れの言葉だ。「息子、世の中に出て行き、しっかりやるんだぞ」という励ましであり、戒めであり、希望、また信頼の表現なのだ。しかしFarewellはその瞬間自体のもつ意味を見落としている。別れそのものについては何も語っていない。その瞬間の感情は隠され、ごくわずかなことしか表現されていない。
 一方、Good-by(神があなたとともにありたもうように)とAdiosは多くを語りすぎている。距離に橋を架けるといおうか、むしろ距離を否定している。Good-byは祈りだ。高らかな叫びだ。「行かないで!とても耐えられないわ!でもあなたは一人じゃないのよ。神さまが見守っていてくださるわ。いっしょにいてくださるわ。神さまの御手が必ずあなたとともにあるでしょう」。その言葉のかげには、ひそやかな、「わたしもよ・わたしもあなたといっしょにいますからね。あなたを見守っているのよ―いつも」というささやきが隠されているー。それは、母親のわが子への別れの言葉だ。
 けれども「サヨナラ」は言いすぎもしなかれば、言い足りなくもない。それは事実をあるがままに受け入れている。人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている。ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。言葉にしないGood-byであり、心をこめて手を握る暖かさなのだ―「サヨナラ」は。

p248-9

“事実をあるがままに受け入れている”というのが、結局のところ、日本の美意識に繋がっているのではないかと思った。例えば庭園とか、日本は苔など含め、自然そのものの形を美しいと認識するが、ヨーロッパの古典的な庭園となると、人間が自然をいかにコントロールするかがポイントになっているところが多い(ベルサイユ宮殿の庭園とか)。

アン・リンドバーグの柔らかく温かな視点でつづられる世界。”女性飛行家の草分け”という仰々しい肩書では想像できない、温かな気持ちになれる飛行記録だと思う。


アン・モロー・リンドバーグ『翼よ、北に』中村妙子訳 2002年 みすず書房

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