民俗学ってなんだか魅かれるんだよなぁ

海野弘 「雀はなぜ舌を切られたか―イメージの風土記―」 昭和61年 講談社


民俗学系の本棚を見ていた時に題名に魅かれて手に取ってみた「雀はなぜ舌を切られたか」。
最初の方を読んでみると、第一章である“塩”の章では、ローリングストーンの歌から始まって、日本の塩の道と膨らんでいっていたので、面白そう…と思って借りてみた。
副題に“イメージの風土記”とあるだけに、“塩”“湯”“釜”“箪笥”“屏風”“橋”“味噌”“針”“糊”“籠”“束子”“鈴”“錐”をキーワードに自由にイメージをふくらましていっている、という趣向になっている。
発想はなかなか面白いと思ったものの、残念ながら章を重ねるごとに飽きてきた。
というのは、どのキーワードをとっても「古事記」のスサノオ(八岐大蛇の話と、天界で暴れまくって追放になる話)や大国主命(因幡のシロウサギの話)などが出てくる。
もちろん他の話も出てはくるけれども、こうも何度も同じ話が出てくるとなんだかなぁとなる。
例えば八岐大蛇の話。
八岐大蛇を退治するのに垣根をこさえて酒を飲ませたのは有名であるが、“塩”の章では八岐大蛇は病原菌でその酒というのは塩。垣根を樽とみなせば大蛇(病原菌)を塩でまもっている、漬物のイメージそのままだ、と説く。
一方“釜”の章になると、この垣根は“カマド”に変身するのだ。“湯”の章でも言っているが、八岐大蛇が製鉄を表しているのは比較的有名なことだと思う。そう考えると、火に関連する垣根を“カマド”と考えるのはうなずける。
でもでも、同じ本の中でこうもぶれてて良いものなのか?
確かに同じ物語を色々な角度から見るというのも面白いかもしれないけれども、それにしてもこうも頻繁に出されると飽きてしまうのだ。
また、もうちょっと“塩”の章のように、他の文化での捉え方・イメージが紹介されていれば面白かったと思うのだが。
とは言いつつ、なんだかんだ興味深く読めたので面白かったとは思う。
何はともあれ、気になった箇所もあったので抜粋してみる;

<“湯”の章より>
 ダイというのは不思議なことばで、死ぬ、というのと、さいころ、を意味している。ザ・ダイ・イズ・カーストというと、さいは投げられたということだが、もしダイが鋳型のことなら、鋳型は鋳型だということになる(※注:鋳型にあたる英語はモールド、メイトリックス、カースト、ダイ;p47)。これは冗談だが、なぜ死ぬことが鋳ることなのだろう。ダイは語源的には場所を代える、代わりのものにする、そして投げる、という意味があったらしい。投げるというのはカーストと同じである。代わりのもので置き換える、たとえば王が死んで、次の王が立つという王位交代システムは、鋳物の空間構造を示している。(p48)

<“箪笥”の章より>
 橋本美術館の曲がり家の座敷に坐っていて、私が今更ながらわかったのは、タンスとはなにかを容れる箱、つまり内部空間を持った家具である、というあたりまえのことであった。しかし内部を持った家具というのは、なかなか重要な問題を孕んでいる。テーブル、椅子、ベッドなどの家具は内部を持っていない。内部を持つということは、空間を二重化することである。内部のある家具が必要なのは容れるものがあるからだ。
…(中略;最初は長持のような単純な箱だった)…そのうち物の量と種類が増えてくると、それを分類しなければならなくなる。つまり、二重化された空間は、さらに再分割されなければならない。…(中略)…
 タンスの面白さは、内部に入っているものの分類が、横の表面に見えるものとして展開されることである。タンスのファサードの抽出しの分割は、かくされた内容の二次元的表示であり、地図なのだ。(p81-82)

<“箪笥”の章より>
日本で<私>のタンスの出現がおそいのは、そこに入れるべき私のもの、そして私の内面世界というものがなかったせいではないだろうか。私だけの秘密の内面、人的宇宙といったものが確立されなければ、私のタンスは不要なのだ。(p86-87)

<“束子”の章より>
(※注:スサノオは田を壊したり、織女を殺したりなどなどして、汚れの身として追放される)
この時、スサノオはオオゲツヒメに食物を乞うと、ヒメは鼻口尻から食物を出したので、汚いといってスサノオはヒメを殺す。ここでは、スサノオは自らを汚れの側にあったのであるが、女たちの汚れに怒るという男の本性を明らかにしてしまう。つまり、きれいと汚いを区別するのは男なのである。イザナミ、オオゲツヒメ、豊玉ヒメたちは決して自ら汚れているわけではなく、男によってのぞかれ、汚れていると決められてしまうのである。(p187)

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