真夏の土佐を彩るド迫力!:絵金

幕末から明治にかけて土佐(今の高知県)で「芝居絵屛風」というものを大成した絵師・絵金についての展覧会が、2023年4月22日からあべのハルカス美術館にて開催されると知って、絵金について調べてみました。

絵金を初めて見たのは、何かの展覧会で最後の方に展示されていた《東山桜荘子 佐倉宗吾子別れ》。
こちらも「芝居絵屛風」というジャンルの作品でした。

《東山桜草紙 佐倉宗吾子別れ》二曲一隻屛風 168.0×184.0cm 赤岡町本町二区

正直の感想は「なんじゃこりゃ!?」。展覧会の最後の方で何てものをぶっこんでくるんだ!?
それくらい強烈で、でも素直に「良い作品」と言えないどぎつさも持ち、だからといって「不快な絵」とレッテルを簡単に貼れない不思議な魅力を持った屛風絵でした。

あべのハルカス美術館で開催される展覧会は、約50年ぶりの高知県外での大規模展とのこと。
またあの衝撃を受けたくて展覧会に行くつもりですが、その前に復習していこうと思って調べてみました。

この記事はこんな人向け

  • 「幕末土佐の天才絵師 絵金」展に行こうと思っていて、その予習したい人
  • 絵金の作品を見て、「なんじゃこら!?」とびっくりした人
  • 幕末から明治にかけての、地方の美術に興味がある人

約15分ほどで読めます。

絵金の生涯

“絵金”とまるで名前のように書いてきましたが、実は“絵師の金蔵”が縮まって“絵金”になったという通り名です。
高知では、絵がうまい子に「エキンになるがや」と言われたこともあるくらい、“絵金”は絵描きの代名詞でした。
したがって、“絵金”と言われている作品の中には、実際には絵金の作品ではなく、絵金派の作品も含むことがあります。
ここでは、“絵師の金蔵”さんである“絵金”の生涯を見ていきます。

絵金の生涯は、町絵師でよくあるように、謎に包まれているところも多いです。
それを踏まえて、分かっていることと推測とを混ぜながら、その生涯を見ていきましょう。


絵金こと金蔵は、文化9年(1812)に高知城下新市町の髪結いの家に生まれました。
当時の土佐は、文化が熟して学問・芸術が盛んとなっており、文人墨客たちがたくさんいました。
その中の一人で裕福な商人である仁尾順蔵の目に留まり、その推薦により土佐藩の御用絵師である池添美雅に入門します

そこでめきめき頭角を現した絵金は、池添美雅に認められ、師の一文字をとって「美高」という号をもらいます。
それどころか、本格的な狩野派の絵師になるよう取り計らわれ、数え年で18歳の時(1829年)、藩主の息女徳姫の駕籠かきの一員として、江戸へと向かいます

当時、狩野派といえば幕府の御用達の絵師集団、また土佐藩の御用絵師も狩野派でした。
つまり、絵師の超エリート集団だった訳です。

絵金は江戸にて、駿河台狩野派の狩野洞白に師事し、また土佐江戸藩邸の御用絵師であった前村洞和に私淑しました。
因みに、前村洞和は河鍋暁斎の狩野派の師でもあります。絵金とは師事した時期は被っていないものの、絵金は河鍋暁斎の先輩でした。
その3年後、「洞意」の号を与えられて、土佐に戻ります
通常、狩野派の修行は10年から20年かかるところを、3年で修行を終わらせ号を与えられるのは、かなり異例なことでした。これは絵金の謎の1つでもあります。

土佐に戻ってきた絵金は、断絶していた藩医の林家の苗字を買って、「林洞意美高」として家老桐間家の御用絵師になります
この時期は絵金の人生の中で絶頂期とも言えるでしょう。
絵金の元へ絵を学びに来る人も多くいて、その中には武市半平太の姿もありました。

髪結いの家から、御用絵師まで登りつめた絵金。
反発する人もいたのかもしれません。
御用絵師になって10年ほど経った頃、贋作事件が発生します。

発端は、ある豪商が狩野探幽の双幅を手に入れたとお披露目会をした時、城下きっての目利きだった壬生水石が「これは洞意(絵金)の手によるものだ」と言い放ったのです。
絵金は即座に自分の手によるものだと認めます。ただし、探幽の落款を付けていないと言い張りました。
狩野派において、先人の作品を模写することは普通なこと。特に偉大な狩野探幽の絵を模写するのは修行の一環ともなる、当然のことでした。ですので、絵金が狩野探幽の模写をしたこと自体は何ら問題ないのです。
どうやら、出入りの画商が勝手に持ち出して、探幽の偽落款をつけて高価に売りつけたということが判明します。

これで絵金が無罪放免になるかと思いきや、そうはならず、御用絵師の座を解かれ、林姓もはく奪、城下追放に処せられました
それ以前の本格的な狩野派の作品もことごとく破棄焼却処分されてしまいます。
「林洞意」という御用絵師の存在は消されてしまったのでした。

追放された絵金は、絵を描くことは辞めず、町絵師となります
林姓を奪われたので、今度は弘瀬姓を買って「弘瀬柳栄」となり、時には洞意美高の号を使い、今度は庶民の為に制作するようになったのです。

追放後しばらくの行方ははっきりしていませんが、土佐を放浪したり、上方に行ったりしたのではないかと言われています。
後に「芝居絵屛風」を大成させたことを考えると、大阪で歌舞伎の看板絵や背景を描いていたのではないかと推測されています。
なぜなら、天保の改革(1841~1842)以降、歌舞伎の興行は江戸・京都・大阪以外は認められていなかったので、歌舞伎の世界にどっぷり浸かるにはその3都市のどこかにいる必要があることと、後の作品で題材となった芝居の中には大阪のみで上演されているものであったり、衣裳が大阪用だったりするからです。

放浪しながら絵金は、紺屋や染物屋の下絵・凧・幟などを描きながら糊口をしのいでいました。
その中、祭りのための義太夫・歌舞伎を題材にした芝居絵を制作することを思い立ちます
絵金の芝居絵はたちまち人気になり、夏祭りのための台提灯絵として約6尺四方(1尺=30.3cmなので約1.8m四方)の大屛風や、絵馬提灯など注文が殺到します
1日に大屛風1枚、絵馬提灯百数十枚、というすごいスピードで仕上げたと言われています。

晩年にあたる明治6年(1873)には中風を患い、それでも左手で精力的に絵を描いていました。
弟子たちには「せめて師匠が左手で描く絵ぐらい上手であったらなぁ…」と言われていたそうです。

明治9年(1876)、65歳の生涯を終えるまで、絵を描き続けました。

伝えられている絵金像は、6尺ある巨漢の大酒飲み
はげあたまのあばた面に科人の刻印が押されていたとか、守銭奴だったとか、ネガティブな評判ばかり残されているのは、贋作事件のせいでしょうか。
前科者として絵金の血縁も隠してきたことから、城下追放から晩年までの足取りは、作品から推測するしかありません。

しかし、追放後の作品群を見ると、そもそも狩野派絵師で収まっていられる人ではなかったのではないかと思えてきて、城下追放は汚点というより必然な気がしました。

芝居絵屛風について

ここで絵金が大成したといわれている芝居絵屛風について掘り下げてみようと思います。

この芝居絵屛風は夏祭の際に参道を飾るために制作され、なんと今でも「絵金祭り」が開催され、夏に公開展示を行っているそうです。

ここでは主に

  • なぜ「芝居」なのか?
  • 芝居絵屛風に行きつくまで

を見ていこうと思います。

なぜ「芝居」なのか?

前述の通り、天保の改革(1841~1842)以降、歌舞伎の興行は江戸・京都・大阪以外は認められておらず、土佐では禁止されていました
ところが土佐の人は歌舞伎、つまりお芝居が大好きだったようです。

元々お芝居は神への奉納芸能でした。
土佐の神さまはお芝居が大好き、という言い伝えが各所で伝わっており、お芝居をやれば豊漁・豊作になる、お芝居を神社の舞台でやらず他の場所でやったら暴風雨になった、といった伝承が残っています。

神さまが芝居好きというのは、すなわち民衆が芝居好きということに読み替えられるでしょう。
土佐におけるお芝居は、地方巡業の玄人を呼んで行うこともあれば、村人たちが演じることがありました。
村人たちが演じる時は、良い役をめぐって喧嘩になり、本人だけではなく家族も出てきて大騒動になることも。

このように信仰を通して生活と密接に関わっていたお芝居。
実は、歌舞伎の興行が禁止されていたものの、城下を離れた町や村では奉納祭礼として続いていました

絵金が芝居好きだったのも想像に難くなく、江戸に絵の勉強に行った時もきっと観ていたに違いありません。江戸から帰ってくる時に、狩野派の粉本と一緒に浮世絵や浄瑠璃本などを数多く持ち帰ったと言われています。
御用絵師の座から降ろされた後に、大阪の芝居小屋にいたのではないかと言われるのも、芝居絵を描くようになるのも突飛なことではないと言えるでしょう。

芝居絵屛風に行きつくまで

いくら土佐の人が芝居好きだからと言って、もしくはお芝居と祭礼が密接に関わっているとは言っても、絵金が突然、大きな芝居絵屛風を参道に飾ることを思いついたわけではありません。

絵を神さまに奉納するというのは、昔から全国的に行われていました。それが、今でもある絵馬です。
絵馬の起源は生きた馬を奉納する献馬に由来します。
それがやがて馬を描いた絵馬奉納となり、桃山時代になると、描かれるのは馬だけではなくなりました。

歌舞伎を題材に描かれた絵馬もあり、幕末から明治期にかけて見れば、歌川国芳の『夜討曽我図』(成田不動)や河鍋暁斎の『野見宿根と当麻蹶速図』(明治7年、湯島神社)などがあります。
絵金も歌舞伎を題材にした絵馬を奉納していて、土佐神社に『小舎人五郎丸、曽我五郎の図』というのもあります。

やがて絵馬を発展させた絵馬提燈ちょうちんというものが出てきます。
和紙面に絵が描かれた長方形の箱型に蝋燭をともし、神社の祭礼の宵に参道を彩るものでした。
土佐でも天明年間(1781~1789)に使われ始め、文化年間(1804~1818)には大型の大絵馬提燈が現れるに至ります。

絵金も絵馬提燈の制作を依頼され、その作品が残っています。
絵馬提燈は消耗品で、祭礼が終ると捨てられてしまうのですが、絵金の絵馬提燈はあまりに見事で残されていました。

絵金がいつから、どのような経緯で芝居絵屛風を制作し始めたのかは分かっていません。
しかし、芝居絵屛風の保存箱などの情報から、少なくとも安政年間(1854~1859)には絵金やその弟子たちのもの含め、芝居絵屛風が土佐に広まっていたことが分かっています。

とても興味深いことに、芝居絵屛風は絵くらべに使われていました。
「絵くらべ」というのは、神社の夏祭りの際に、各集落から芝居絵屛風を持ち寄り、その出来栄えを競い合い、勝った集落がその年の繁栄が約束されるという年占いでした。
こうして絵金が大成した芝居絵屛風が爆発的な人気を興し、祭礼の一部へと組み込まれていったのでした。

芝居絵屛風の特徴

絵金やその周辺絵師による芝居絵屛風の特徴を見ていきましょう。

次の3つのポイントで見ていきます。

  1. 他の“芝居絵”との違い
  2. 使われた絵具
  3. おどろおどろしいのはなぜ?

1.他の“芝居絵”との違い

“芝居絵”というジャンル自体は一般的なもので、浮世絵でも人気のジャンルでした。

皆さんも、単体の役者が描かれた浮世絵や、複数の役者がずらりと並んだ舞台の一場面を描いた浮世絵を見たことがあるかと思います。

では絵金の描く芝居絵屛風は、こうした浮世絵と似たものなのでしょう?

まず目につく浮世絵の芝居絵絵金の芝居絵の違いは、前者の大半は役者ありきの芝居絵に対し、後者は役者を特定して描いていないところです。
浮世絵の芝居絵を見ると、必ずと言っていいほど役者の名前が書いてあります。
それに対して、絵金の芝居絵には役者の名前がどこにも見当たりません。
そのことから、絵金は役者や舞台を描いているのではなく、物語を描いているのではないかと考えられます。

描かれている人物の表情を見ても、役者を描いているのか、物語の登場人物を描いているのかで違いが出てきます。
同じ演目を描いたものを並べてみると、一目瞭然。絵金の芝居絵は人物に動きがあるだけではなく、顔の表情も大げさなぐらいついています。

絵金《菅原伝授手習鑑 寺子屋[松王丸首実験]》二曲一隻屛風 168.0×184.0cm 赤岡町本町二区
豊原国周《菅原伝授手習鑑》刀剣ワールド財団所蔵 (出展元:https://www.touken-world-ukiyoe.jp/actor/art0017090/)

特定の役者を描いていないからこそ、誰にはばかることもなく思い切った表情で描けたのではないでしょうか?

もう1つ、絵金が歌舞伎の物語を描いたと言える特徴としては、異時同図法が用いられていることが挙げられます。
異時同図法というのは、同じ画面に複数のシーンを入れ込んで描く方法を指します。

例えば《蘆屋道満大内鑑・葛の葉子別れ》という作品は、安倍保名に助けられた狐が葛の葉姫に化けて保名の前に現れ、二人の間に子ども(後の安倍晴明)ができるものの、本物の葛の葉姫が現れたため本性がばれて去って行く、というシーンを表しています。

《蘆屋道満大内鑑 保名内[葛の葉子別れ]》二曲一隻屛風 147.0x132cm

ここには3つの葛の葉狐の姿が描かれています。
1つ目が梁の上にしがみついている、本性である
2つ目が画面中央には、泣いて別れようとしている葛の葉が、追いすがる子ども、保名と本物の葛の葉姫と一緒に描かれています。
3つ目は窓の外、後ろの方で小さく描かれているほぼ狐になってしまった姿。保名と子どもの姿も見えます。
このように一連の出来事が1つの画面に詰め込まれているのです。

浮世絵の芝居絵の中でも、役者を特定せずに歌舞伎演目を描いたものも、少数ながらあります。
例えばこちらの歌川広重による浮世絵は、絵金の芝居絵屛風より少し前、天保(1830~1844)中期頃の作品です。

歌川広重《忠臣蔵 五段目》ギメ美術館蔵

異時同図法は使わず、1シーンのみ描かれているのを見ると、物語全体を描くというよりも、見せ場のシーンを詩情豊かに描いたという印象を持ちます。

このように比べると、絵金の芝居絵は物語を伝えるために、しかもドラマチックに語るために描かれているのがよく分かると思います。

2. 使われた絵具

絵金の芝居絵屛風には泥絵具という、歌舞伎などの背景を描くのに使われる安絵具が使われていました。
日本に古くから伝わる絵画でよく用いられる岩絵具は、自然の材料である鉱物を使いますが、泥絵具も同じく鉱物を使うものの、土質に近い粗製のものになります。
祭礼の時に使う芝居絵屛風で、長く鑑賞するための物ではなかったことや、庶民の物だったことを考えると、安絵具であったことは当然と言えるでしょう。

同じ庶民のものであった浮世絵は言わずがもがな、版画の世界です。
それに比べると、厚ぼったい、不透明な質感を持った原色に近い色合いで描かれた作品群。その巨大さも手伝って、夏祭りで飾られた際には、道行く人にさぞかし大きな衝撃を与えたでしょう。

ただし安絵具であるがために、色の変化も激しいようで、私たちが今見る物は大分色が劣化してしまっているようです。
そのため鑑賞する時は、想像力を働かせてもっと鮮やかでド派手だった姿を思い浮かべた方が良さそうです。

また、宵の頃、蝋燭の光で照らして展示されていたことも考慮に入れるべきでしょう。
黄色味がかって、ちらちらと揺れる光。それに照らされる極彩色の絵。
しかも当時は今ほど世の中に色が溢れていなかった。
そう考えると、いかにインパクト強かったのか想像できますよね。

3. おどろおどろしいのはなぜ?

蝋燭の光に照らされる芝居絵屛風。
その作品の多くはおどろおどろしいものが描かれています。
血しぶきや、時には腸が出ているのまで…
同じころに活躍した月岡芳年も「血みどろ絵」と呼ばれる絵を制作していたので、その時代の流行なのでしょうか?

絵金たちの時代は幕末の激動の時代
絵金に絵を習いに来ていた武市半平太も土佐勤皇党を結成、吉田東洋の暗殺や、その後の天誅と称した暗殺にも関与し、最終的には捕縛後、切腹を命じられました。
こうした血で血を洗うような出来事が起きていた、この時代の世相を反映していたと言えるでしょう。

ところが忘れてはいけないのは、絵金の芝居絵屛風は祭礼のためのものだったということです。
芝居絵屛風が飾られる祭礼とはお盆の時期で、つまりは祖霊たちがかえってくる時。祖霊に交じって悪霊がいる可能性もあります。

おどろおどろしい絵を描くことで、悪霊を祀り、鎮める効果があったことも考えられるのです。
もしかしたら、当時の世相から、より強力な悪霊祓いが必要と感じ取って、このような大画面で臨場感あふれる血みどろの絵を描き、奉納したのかもしれません。

さいごに

日本の美術史を勉強していても、なかなか名前が上がってこない絵金。
地方で活躍した絵師であったということよりも、祭礼と密接に関わる芝居絵屛風などを描いていたということで、“美術”という枠に入るのかが微妙なところのようです。
美術よりも、民俗学的要素が強いということでしょうか。

とはいっても、実際に作品を見ると、大きな衝撃を受けることは間違いありません。
その背景には、狩野派絵師として培ったテクニックと、絵金自身が持つ表現力があると言えるでしょう。
現代の私たちをも揺さぶりかける作品。芸術の定義は難しいですが、個人的に心を揺さぶられるものは芸術だと思っているので、絵金の作品も「芸術」と呼んで問題ないように感じます。

そしていつか、高知県で行われている絵金祭にも行ってみたいです。
芝居絵屛風が、暑い夏の宵に飾られているところを観ることで、より絵金のすごさが分かってくるような気がします。

参考文献

絵金について

『絵金 幕末土佐の芝居絵』広末保・藤村欣市朗編、1968年、未来社

戦後の絵金ブームが興った頃に刊行された本。情熱的に書かれているのが特徴的。


『絵金 鮮血の異端絵師』第一出版センター編、1987年、講談社

カラーの作品だけではなく、水墨画・下絵なども収録されて絵金のすごさがよく分かる。
絵金の生涯もまとめられていて分かりやすい。
※この記事の絵金の画像の出典元です


「絵金 幕末土佐の芝居絵」大久保純一(『幕末・明治の画家たち―文明開化のはざまに』辻惟雄編著、1992年、ぺりかん社)
本の中の1章だけれども、浮世絵などからの影響なども考察されていて内容が濃い。
(この本はAmazonにあったのでリンクを貼っておきました)


『絵金と幕末土佐歴史散歩』鍵岡正謹・吉村淑甫著、1999年、新潮社

大判ではないので読みやすい。絵金祭りの様子含め、写真が豊富な上、絵金の生涯やその背景もまとめられている。


『絵金』絵金蔵 藤田恵監修、2009年、パルコエンタテイメント事務局

他の本と異なり、蝋燭の光に照らされた芝居絵屛風の写真が掲載されていて、当時の人たちが見たであろう風景を伝えている。
文字情報は少ないので、どんな雰囲気だったのかを感じ取るための本。


『絵金 極彩の闇』高知県立美術館監修、2012年、grambooks

高知県立美術館で開催された絵金展の図録ということで、掲載されている作品も豊富。
1854年の南海大地震の絵も掲載されており、非常に興味深い。
(この本はAmazonにあったのでリンクを貼っておきました)

その他

『江戸の芝居絵を読む』服部幸雄著、1993年、講談社
主に浮世絵における芝居絵について。芝居絵にも色んな種類があることや、知的な遊びがあったことが分かって面白い。
※この記事の歌川広重の画像の出典元です


『高知県の歴史』荻慎一郎・森公章・市村高男・下村公彦・田村安興著、2001年、山川出版社


『土佐と南海道』秋澤繁・荻慎一郎編集、2006年、吉川弘文館

おまけ:小説

『絵金、闇を塗る』木下昌輝著、2018年、集英社
この記事ではあまり触れなかった、絵金の艶っぽいところを全面の押し出した作品。
絵金をめぐる人の視点で章立てされており絵金像に迫る。
確かに小説にしやすいだろうなと思うくらいの波乱万丈な人生だった絵金。
物語に引き込まれるのでぐいぐいと一気読みできる。

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