ちょっと良さを分かるのは早かったか:幸田文「流れる」

文学作品を読もう!と思って、まずは幸田文に手をつけてみました。
幸田文といえば「おとうと」とエッセイしか読んだ事がないけれども、印象としては繊細なきれいな文章を書く人だな、でした(と、私には言われたくないか)。
そう思って手に取ったのが、新潮社の現代文学集の幸田文。中身は「流れる」と「闘」とその他。その中で表題作の「流れる」を読みました。
なんというか・・・・読むの、辛かった!!!!


主人公の梨花(中年女性)が芸者の家に住み込む女中になるところから始まるけれど、大して事件もなく進む。まあ、冷静に考えたら、結構色々起きているのだけれども。例えば、芸者の一人(梨花が来る前にいなくなった)で失踪してしまった人の叔父さんが来て、言いがかりをつけられてゆすられていたり、借金まみれの家だとか、借金まみれの芸者さんだとか、家族関係のごたごたなどなど。しかし、それが劇的に書かれているわけでもなく、なかなか淡々と書かれている。
なんとなく、作者はそういう事件を、劇的に書くわけではなくて、こういう事件が日常の中で起きている、ということが書きたかったのかな~なんて思いました。そして、現在形の文章でたたみかけるように語るのが、次から次へと淀みなく日常が進行していくのを表しているような気がしました。


総合的に言うと、話は大して面白くなかったけれども、やっぱり文章、素敵だわ~と思いました。
話に関して言えば、梨花の過去が少し垣間見られたとき、「おお~やっと話が面白くなってきじゃないか!!!」と思ったのに!! 結局、それが明かされるわけでもなく・・本当に淡々と日常が・・・


日常を語る文章が素晴らしいのは素晴らしいのだけれども、素晴らしすぎて、汚い日常の描写がリアルすぎ!!リアルすぎですよ!姉さん!


ネズミと共同生活の様とか、汚い飼い犬の死んでいく様とか!リアル・・・

犬が、―たたきで気もちよさそうに手脚を踏みのばして臥ていた。死んでいた。いつもの通り糞便と吐物とによごれて臭う玄関である。大きな下駄箱もその横の犬箱も投げいれられた新聞も、いつもの通りになっていて、犬は固くつめたかった。頭のところに梨花の不断下駄、すこし離れて食器、ゆうべのごはんがそのまま牛の脂を凍らせている。感傷が飯碗に残された飯からこぼれていた。いっぱいご飯を残してひとりで死んでいる犬なのだ。彼はいまも鎖を引きずっていたけれど、こんな安楽そうに臥ている。いつもはぶきっちょな手脚をこっつりと堅めて、窮屈そうに箱のなかへかがまっていたのに、・・・・・・かがまっているときは生きていて、安楽に手脚を伸ばしているときは死んでしまう。・・・・・・

犬好きじゃないけど、かわいそすぎる・・・。
いいな、と思う表現;


梨花の主人達が演芸会に行った時のこと
「想像という大きなテレヴィジョンがどこの家にも備えられて、めいめいの送りだした選手が伊達ややつしに扮装して技を演じているのを、気づかいながら想っている。」

コメント

タイトルとURLをコピーしました