はんなり言葉に救われた:宇野千代「おはん」

前に誰かが確か、宇野千代すきーと言っていて、じゃあ読んでみよう、と思って借りてきた「おはん」。

本当に“宇野千代すきー”といったんかいな、と思ってしまうくらい、私の好みじゃないお話でした、残念ながら。

だってだって男がありえないくらい、優柔不断すぎる!!

男が誰かに語っている、という形で話は進んでいっているのだけれども、この男、芸者といい仲になって、妻と離縁し、儲けのない店を営みつつ、その芸者のひものような生活をしている。

そこへ偶然妻のおはんに出会って、何を思ったのか、おはんを自分の店に来い、みたいな事を言って、結局こそこそ会う仲になる。

実は、おはんとの間にできた子がいて(しかし妊娠していたことは離縁してから発覚)、その子にたまたま出会ったのが運のつき、不憫になったのかしらないけれども、情がわいてくる。

そうこうしているうちに、勢いでおはんに“あの家から出るから一緒にまた暮らそう”みたいなことを言ってしまって、結局芸者(おかつ)の家をこっそり出て、一緒に住むことにする。

しかしだ!その出て行ったその日の夜に、またおかつの家に戻るんだな!!しかも、二つ家ができたような気になった、だと!!!

それで、その夜に実は息子が死んだと、知らせがおはんに来ていたみたいで、次の日に戻ってみると、おはんはおらず、自分の息子のお葬式にでくわす、と。

結局最後は、それでおはんとまた一緒になることもできず、おかつの家に戻り、それでおしまい、なんだけど、とにかく、えええええええええええええええ!!!なんやねん!と憤りがわいてくる。

大体、最後におはんが男に宛てた手紙なんて、恨みつらみもなく、なんでそんなええ人なん!?と逆になじりたくなるほど。

しかしだ。

これがまた、はんなりとした京の言葉でつづられていくから、まるで浄瑠璃を見ているような気がしてしまうんです。そこはすごくよかった。というか、浄瑠璃のような感じだから、なんとか、この話を読みきれた感がしてたまらん。もし、普通に語られていたら、あまりの腹立ち具合に、本を破ってたかも・・・むにゃむにゃ

特に、息子の葬式にでくわして、泣きすがるシーンはまさに浄瑠璃;

…(中略)…
「悟!俺や、お前のお父はんや、」と掻き口説くよに声おとして、枕もとに縋りました。
 わが子に死なれると申すことは、まァこなな心持やと誰が言うてくれましたろうぞ。去年の冬はじめて悟に会いましてからこの日まで、親やとも子やとも言わず待ち暮らしていたその日に、今日からは親子三人一つ家で枕ならべて寝るのやというその日に、もうわざと選ってその日に死んだと申しますは、まァどなな神仏の思召しでござりましょうぞ。
「悟!俺や、お前のお父はんや、」と私はお人の前も忘れましてなァ、子供の生きてます間、口に出しては得言わなんだこの一言が、いまさら子供の心に聞えるやろと思うてでござりましょうか。
 ま新しい浴衣きた裾のあわいから、よう陽にやけた細まい(こゥまい)足の、ちょこんとそとに出てますさまの哀しさ。ほんに何やらもの言うてるよに思われます。「お父はん、大事ないけに、もう何にもいらんようになったけに、と言うてるように思われます。

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