ベルゴットが期待外れというところが共感を持った:マルセル・プルースト 「失われた時を求めて3 第二篇 花咲く乙女たちのかげに I」


あまりに長いスパンをかけて読んだせいで、最初の方を忘れてしまった「失われた時を求めて」の3巻。

本書になると語り手のお話になる。

スワンとオデットは結婚しており、その娘・ジルベルトと語り手の交際がメインの話となる。
ジルベルトの友達、ということでオデットのサロンに招かれるようになった語り手は、大好きな作家のベルゴットに出会ったりする。

本書には二部入っており、第一部は「スワン夫人をめぐって」、第二部は「土地の名・土地」となる。

「スワン夫人をめぐって」がメインとなっており、ジルベルトと仲良くなって好きになるところから仲違いするところまでが描かれている。

「土地の名・土地」では、ジルベルトと仲違い後に、ずっと夢見ていたバルベックへ行く。
一応ジルベルトへの想いを綿々と書いているが、実はジルベルトに関する記述が少ない(ような気がする)。それよりもオデット(今はスワン夫人だけど)のサロンの様子、それもオデットについての描写がよく書かれている。

「土地の名・土地」では、またもや実際に見たら、自分が想像していたものより格別に劣る、といった趣旨のことが書かれている。

ところで、本当に不思議で戸惑わせられるのが、いったいこの語り手はいくつくらいなのか、ということだ。
ジルベルトとの話の中では商売女の所へ行くシーンがあるし、バルベックへ行く前にアルコールを飲む場所を探すシーンがある。
まぁフランスだから早い時期からお酒を飲むとしても、ビールはそんな若い時期に飲むとは思えない。
そうかと思うと驚くほどメソメソする。
いくら繊細だからってそれはないんじゃないか!?というくらい。光源氏も真っ青なくらい。
バルベックへは祖母と一緒に行くのだが、すぐ不安がって夜中に祖母を起こして、キスをしまくったり…。

もう一体いくつなんだろう…
あまりに歳に関するヒントがなさすぎて、いちいち振り回されてしまう。

これが例えば17歳、と分かって読んでいれば、泣いたりしても、まぁ繊細なのね、で終わるのだが、歳が分からずに語り手の言動から歳を判定するしかないとすると、17歳が10歳に急になったり、でも時系列的にはこの時とこの時は同時期なのだが…と混乱させられる。
なにはともあれ、今回気にいった個所をつらつらと書きとめておこう

それは(注:語り手が持つ疑惑)私が<時>の外に位置しているのではなくて、小説の作中人物たちとそっくり同じように<時>の法則に支配されているのではないか、ということだった。だからこそ小説の作中人物たちは、私がコンブレーで日除けつきの籐椅子にすっぽりと腰を下ろして彼らの生涯を読んだときに、あれほどの悲哀のなかに私を投げこんだのだ。理屈のうえでは人は地球が回っていることを知っているけれども、実際にそれを感じることはない。人の歩く大地は動いていないように見え、私たちは平然とそこで暮らしている。人生における<時>もこれと同様だ。そして逃れ去る<時>を感じさせるために小説家はやむなく針の動きをめちゃめちゃに速めて、読者に二分間で十年、二十年、三十年を飛びこえさせる。

(p121-122)

おまけに思考は、新しい状態と比較するために、昔の状態を再構築することすらできない。なぜなら思考はもはや自由に動きまわる余地も持たないからだ。私たちが知合いになった人、期待もしていなかったその人との出会いの最初の数分間の思い出、耳にした言葉、そうしたものが意識の入口をふさぎ、想像力よりもむしろはるかに記憶力の発露する出口を支配している。それらは未来のまだどうにでもなる形に対するよりも、むしろさかのぼって私たちの過去に働きかけるものであり、私たちはそうしたものを考慮に入れずにはもはや過去を自由に見ることもできない。何年ものあいだ私は、スワン夫人の家に行くなどというのはぼんやりした空想で、けっして到達できないことだろうと思いこんでいた。ところが彼女の家で最初の十五分を過ごした後には、一つの可能性の実現によってもう一つの別な可能性は無に帰したかのように、スワン夫人を知らなかった時代の方が空想的であり、ぼんやりしたものになった。

(p236)

マルセル・プルースト 「失われた時を求めて3 第二篇 花咲く乙女たちのかげに I」 鈴木道彦・訳 2006年 集英社

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