花のほかには松ばかり:林望「能は生きている」

歌舞伎、文楽と体験済みの私としては、どうしても観てみたいのが、能・狂言だったりします。
それなのに、何かとご縁がなくて、見れていない現状・・
成田美名子女史の「花よりも花の如く」を買い求め、能への憧れをますますもって募らせているというのに・・・

そんなわたくしが手にとったのは(というか、家の本棚にあって、他に外に持っていくのに手ごろな大きさの本がなかったため)、林望氏の「能は生きている」でした。
その昔前、小学校の時に課題図書で読まされた「森は生きている」にめちゃくちゃよく似た題名だなあ~と思ったのは秘密です。

いやあ 当たり前のことながら、これを読んでますます能を観に行きたくなりました。

というか、能を観たほうが、この本をもっと面白く読めるだろうと思いました。
なぜならこの本は、能の指南書というよりは、能の考察書のようだからです。

それでいて、この本を読んで、これは何がなんでも、生で能を観なくてはいけない!と思ったのが「謡の詞章が、その旋律や声調や拍子と一体になって、きわめて強いイメージ喚起力を持って」いるらしいから。

あと、舞台としての能ではなくて、学問(?)としての観点で面白いと思ったのが、美しい女性と美しい男性とではとらえ方が違う、ということでした。

どちらも“美しい”という話をする時には、決まって年寄りの格好をひっぱりだしてくる。例えば、小野小町とか在原業平とか。もう年寄りの状態で、昔は美しかったんだよ、みたいな話をする演目が多々ある。

しかし、その年寄りの姿の小野小町を通して語るのは、いくら美しい人でも、やがて歳をとって醜くなる、というような諸行無常の響きあり、を語っている。

それにひきかえ、男の年寄りとなると、長寿だとか、繁栄だとか、そういうプラス的要素が多々付随してくる。

とまあ、簡単に述べると、そんな感じなことが書かれていました(多分)。それが、すごく面白いなあ~と思ったのでした。

多分、これらの差というのは、女の美は、愛でられるものに対して、男の美は、ひきつかせるものだからなのかなあ~と漠然と思ったのでした。

そんな風に、能の考察をなさっているリンボウ先生ですが、最後のあとがきに、きちんと述べているのが

能はただなにかの思想のプロパガンダでもなく、事実の伝達でもなく、感情表明でもなく、四季、恋、追憶、人情、史実、演芸、神事、仏教、と様々なファクターを包含しつつも、しかも、その全体の大きな抒情の雲を覆っていることに注意せねばならぬ。

ということで、ますます能が観たくなる一冊でした。

 よのなかはゆめかうつつか うつつともゆめとしらす ありてなけれは

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