「三月は深き紅の淵を」関連本、第二弾(といっても実際は、こちらの方が先に書かれたようですが)「麦の海に沈む果実」を読みました。
いや~ これは「黒と茶の幻想」とは違い、「三月は~」云々の部分がなくても充分面白かった!一気に読み終わったし。なんて「黒と茶~」に可愛そうですが、これを借りる時に図書館にもう一回「三月は~」を斜め読みしたのですが、本の中の「三月は~」とやっぱりかなり違うみたいですね(当たり前か)。
「三月は~」の方では四人の関係があんまりはっきりしないっぽいし、もっとざくざくと謎が出てきているみたいです。「三月は~」の中で語られる謎のほとんどは、「黒と茶~」には出てきていないし。「三月は~」の方は、もっと脈略がない話で、でもそれでいて謎がすごく光っていたみたいです。ま、なにせ幻の本だし。
なんて気付いたら「黒と茶~」の話が続いてしまいましたが、この「麦の海~」は「三月は~」の設定のように、とても奇妙な学校が舞台となっています。なぜか3月から始まる学校。転入生も3月に入るのが原則。それなのに、理瀬は2月に転入してきます。どうやらこの学校では、2月にやってくる人にはジンクスがあるらしく、とても不吉らしいです。
この学校の不思議なのは、人がよく消えてしまうこと。そしてそのことを生徒は不思議に思っていないこと。その生徒達の上に君臨するのは校長先生。その校長先生も曲者で、男なのに女装したりする。校長先生のシンパも沢山にいるのだけれども、反対分子もやはりいて。理瀬のルームメイトの憂理(ちなみに「黒と茶~」で利枝子&蒔生カップルの破綻のきっかけになったのも同じ名。しかもどちらも女優を目指している)もその一人。
どうやら理瀬が転校してくる前にも麗子という子がいなくなっているようだった。
とまあ、謎の多き、しかも閉鎖されている、どこかゆがんだ学校にて、殺人事件が起きていくのです。そしていまいちつかめない主人公の理瀬。(以下ネタバレあり)
結末を言ってしまうと、理瀬は記憶喪失で、実は校長先生の娘だった。麗子も娘で、彼女の場合はその後継者になりたさで、一回理瀬の首をしめて殺そうとする。理瀬はそのせいで記憶を失ってしまって、それを取り戻させるために、校長先生はまた理瀬をこの学校に転校させ、様々な画策をするのだが・・・という話でした。
何がこの話の魅力って、この学校の設定でした。
まず、この学校には三種類の生徒がいる;「ゆりかご」上質な教育を受けさせたいという親の要請で送られた子 「養成所」特殊な職業に就きたくてやってくる子 「墓場」いわゆる要らない子
どうやら中高一貫になっているらしく、縦割りに一学年から男女一人づつ12人で構成されているファミリーというグループから成っています。
ファミリーやら「大きな家」と呼ばれる建物から分かるように、家族のような共同体になっていて、学校内では苗字は使われず、みんなファーストネームで呼ばれるのです。
その上、学校は湿地帯の中にあって、本当に閉鎖された空間、というわけです。
いびつな少年少女。その上に君臨する圧倒的な存在の校長(しかも女装したりする)。閉じ込められた空間。さいこー!!
前の恩田陸の作品で、西洋と日本、といった関係の引用をしたけれども、今回も一つ;
「日本て、顔つき合わせる踊りってないじゃない。阿波踊りだって、盆踊りだって、一人ずつの踊りで、みんな同じ方向向いて踊る。二人で、しかも目を見合わせる踊りなんてない。そもそも結婚式ですら―いわゆる祝言てやつ?―男女は並んで座って最後まで目を合わせることはない。杯だって二人で前向いて飲むんだもん…(中略)…
p164
社交ダンスって、個人と自我が確立している社会でしか成立しないよね。相手に触れるようで触れない。そこにいるのは相手と自分だけで、一対一で向き合って、一緒にいても決して混じり合わない。しかも、相手に向かって腹を見せてるわけだから、すごく無防備な姿勢じゃない?相手を信用してないと―言い換えると、互いに同じ常識を持っているという前提条件がないと成り立たない」
最後の最後まで「本当にこれ以上どんでん返しないよね!?このまま不幸な方向に転ばないよね!?」とはらはらしながら読めました。ちなみに、実はマフィアの子どもだったっていうヨハンがよかった(その裏設定が)。ちなみにちなみに、本のデザインを京極夏彦がやっていました。
(恩田陸 「麦の海に沈む果実」 講談社 2000年)
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