順番をばらばらがちに読んでいたQEDシリーズ。今回は、ちゃんと順番どおりに読んでいた頃の続きと相成りました。おかげで、奈々さんはまだ崇に恋心を抱く前で、なんか変な感じでした。
それはそうと、やっぱりQEDシリーズは、事件自体はそこまで興味深くないな~ということ。でも周りの話がめっぽう面白い。しかも平安朝とその前くらいの話が面白い。何しろ私にとってQEDシリーズといえば、平安朝に興味を持たせるきっかけ本です。
それまで平安なんて、「オホホ…」とか「麻呂は…」というイメージだったのですが、本当はそんなのではなく、雅だと思っていた和歌が、政治の道具だったとは、面白いとしかいいようがありません。
しかも、今回の話によれば、朝臣というのは“遊ぶ者”という意味で、貴族というのは遊んでなくてはいけないらしいのです。逆に、遊んでいなかったら貴族でないという。
今回の話は、タイトル通り、「竹取物語」を下敷きにして、山奥の二つの村で起こった事件の話でした。松・竹・梅という、おめでたいものが実は騙りで、不吉なものだということから話が始まります。「
竹取物語」は結論だけいうと;
「どうして『かぐや姫物語』ではなくて『竹取物語』だったのか、ということだ…(中略)…つまり、『竹取物語』というのは『ササ取物語』であり、『砂砂取物語』のことだったんだ。出雲の国を中心とした、一大タタラ場の話だ。そういえば―素戔鳴尊も、出雲にいる…(中略)…すさのう―『朱砂の王』を祭神とした、『八重垣神社』がそれだ。ここには素戔鳴尊と結婚した奇稲田姫(くしなだひめ)も祀られている。その出雲の国の一大産業が、かくや姫だったということだ。つまり、光り輝く、砂鉄だ…(中略)…竹林―賤しい場所から生まれた光り輝くモノ。それこそ、砂鉄であり、朱砂であり、これから生まれる財宝―鉄じゃないか。そして、その―現実には自分たちが簒奪してしまっている―鉄が、結局は出雲の神殿に返って、きちんと納められる。これこそ鎮魂だ。機織りの人々や、タタラの人々に対する、畏れをこめた鎮魂だ。紀貫之は、きっとそれらを命じられたに違いないと思うね。当時の朝廷の―数限りない怨霊に怯えていた、貴族達にね……。これで―」
p303
崇は前を向いた。
「証明終わり(QED)」
とのことです。というか、「竹取物語」にモデルがいたのにはびっくりでした。そして月にのぼっていった、というのは出雲大社にのぼっていったということではないか、というのもびっくりでした。当時は出雲大社、50メートル近くあったらしいので、たしかに天に上っていくイメージ、しかも雲に上る、というのもあってるし…。
ということで、いくら事件自体が手の込んだものでなくても(逆に手の込んだものであったら、歴史上の謎と混乱しちゃって、読みずらくなってしまったかもしれないし、それこそ京極夏彦なみの厚さになってしまうだろうし)、奈々みたいな人は実物にいないだろう!という感じであっても、なんか満足感を得てしまいました。
(高田崇史 「QED 竹取伝説」 講談社 2003年)
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