美術史を勉強していた時代が懐かしくて手に取った一冊「芸術のパトロンたち」by高階秀爾
もともと、美術の作品自体についてとか、アーティストについてだとかにそこまで興味があったわけではなく(もちろん、見るのはすごく好きですが)、どちらかというと、この社会情勢だからこういう作品ができたのだ、という「社会の中の美術」というような観点が好きだったので(なんか自分でも何書いてるのかわからなくなってきたのですが・・・)、とても面白かったです。
とりあえず目次という名の項目は;
序章 パトロンとは何か
1 パトロンの登場
フィレンツェの同業者組合
商人と銀行家
神の代理人
2 栄光のパトロン
地上の君主たち
教皇と枢機卿
バロック・ロココの市民たち
3 パトロンの拡大
芸術の大衆化
市民芸術の勝利
展覧会とアカデミー
4 新しいパトロン
美術批評とジャーナリズム
画商と画廊
政府・収集家・企業
終章 パトロンの役割
当たり前のことながら、パトロンのあり方が変われば、アートも変わる。その対象者が変わるんだから、それ自体が変わるってわけなんだなあ。ということがよくわかりました。
なんだかアートというと、金儲けから離れているものと思われがちだけれども、見る人がいないと成り立たないものなわけだから、結局はこの世に密着している気がします。
今は、アーティストが自立しているようだけれども、いくらある人が「これはアートだ!」と作品をひっさげてきても、誰も認めなければ、それはアートになりえないんじゃないか??
結局、広告だとかその他もろもろのグラフィックと“アート”の違いは、(まあ役割があまりに違うだろうけど)対象者の目をとらえる時間の違いなのではないか?つまり、広告だとかは一瞬でもでも対象者の目をとらえればいいのに対して、“アート”というのはもっと長く、「眺め」られなくてはいけない、と。
などとうだうだと考えてしまいました。あまりに乱暴な考察ですが。
やっぱりこういうのを考えるの、楽しいな・・・
(高階秀爾 「芸術のパトロンたち」 岩波新書 1997年)
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