読書会で知り合った人の日記で、2011年のベスト本海外版で選ばれていた「天啓を受けた者ども」。
どうせなら同じ作者の処女作から読もうと思って借りた「逆さの十字架」。
太い本だな…と思っていたが一気に読み終わってしまった!
非常に面白い。
恥ずかしながら、アルゼンチンのことを何も知らなかったので(「エビータ」くらいしか分からない)、その内情が綴られている本書は驚きの連続であった。
メインとなる登場人物はトーレス神父。
聡明な神父で欧州帰り。貧しい人達の傍に立つ教会を目ざすのだが、教会は自分達の“崇高さ”ばかりを求めている。
折しもアルゼンチンは共産主義が台頭してくる。
皆は対等、と謳う共産主義だが、そんな弁士の多くは召し使い付きの裕福な生活をしている。
もう一人のキーパーソンは軍隊上りの警察長官。
残酷な男で、共産主義者、娼婦、果てまでは運動家の学生が集まった教会まで攻めてくる。
物語は、トーレス神父、娼婦、冷めた目を持つ大学生、カトリック教会の重鎮であるトーレス神父の叔父からトーレス神父への手紙、警察長官、共産主義の親娘などの視線で構成されている。
特にトーレス神父の苦悩は読みごたえがある。キリストの教えをどのように現代に実現していくのか?という懊悩がよく描かれている。
トーレス神父の言うこと、実践していることは、私の目からしたら(というか読者としては)キリストが説いた教えを実践しているように見える。
「貧しい者は幸いである」とキリストは言っているのに、教会は豪華に飾り立てる。そこには富める人ばかりが集まる。
本書では、貧しい者は生きるので精一杯で、生きる為に盗みなどを犯してしまう。その告解を聞きながらも神父に求められることは、そんな人たちに“祈りなさい”と言うだけ。
彼らを救う為には、社会から変えていかなくてはいけないのだ、というのはよく分かる。
しかし本書はハッピーエンドで終わらない。
トーレス神父とその理解者であるブエナベントゥーラ神父は、カトリック教会から糾弾を受け追放されてしまう。
反対に警察長官は、一回失脚しそうになるもののすぐに挽回してしまう。
あからさま過ぎるところもあるくらい、聖書と呼応する部分が多々ある本書。
トーレス神父は自らが目指すキリストの生涯に似ている。ひたすら貧しい者へと向かっていった揚句の果てが、教会裁判にかけられて破門される。
娼婦は、その名もマグダレーナ。娼婦であっても心優しく、トーレス神父を尊敬しているところも、マグダラのマリアがキリストを慕うのに似ている。
警察長官であるペレス大佐はもちろんヘロデ王だし、トーレス神父の叔父はファリサイ派の長老のような人。
非常にリアルなので、こうやって聖書になぞらえている所もあると(多分なぞらえているんでしょう…)、キリスト教の在り方の問題点が克明となって、大変考えさせられた。
解説を読むと、実際にトーレス神父のように貧しい者に近付いた神父様がいたらしく、その結果殺されてしまったということもあったという。
作者のアギニス自体も命を狙われたこともあったらしい。
知らなかったのが恥ずかしいくらいの激動のアルゼンチン。時代背景を知ればもっともっと面白かったかもしれない。
十分、衝撃的だったけれど…
以下、興味深かった3文を抜粋;
(トーレス神父から伯父への手紙)
<保守的な高位聖職者が奴隷制度からの解放に難色を示した、という話の後>その一例が“肉体のことを忘れ、魂を救いなさい”と説き、キリスト教信仰を精神面に限定したことです。しかしながら、神が愛されるのは“完全な”人間、キリストが具現化した、筋肉、神経、内臓からなる肉体であり、けっして実体のない精神ではありません。身体と滋養を軽視する考えは使役・非使役の関係を容認し、人を人とも思わない搾取を横行させるもととなりました。キリスト教精神とはかけ離れた不平等な状況から逃避すべく、聖人や高位聖職者らは修道院にこもり、下級の聖職者は世捨て人になる、あるいはその時々の権力者との裏取引に応じる道を選び、反逆者を非難し、人々のいら立ちを鎮めるほうに向いました。つまり、宗教が奴隷制度を擁護する側に立ったということです。
p97
(トーレス神父の演説。南米でのキリスト教の広まり方について)
一四八一年、教皇庁はまずポルトガルに、これまでに発見した、あるいは今後発見する新領土をすべて属領とする権限を認めました。すなわち植民地制度を敷き、“真の信仰の布教を未開の民や異教徒らに対しおこなう”権利を与えたわけです。史上初めて教会が植民地化と布教という二重の権限を一国家に与え、政治と宗教、経済と福音が混合されて、軍事的で広大な神政国家が形成されます。…(中略)…
伝道の衣を羽織った経済的征服。どれだけ王室の意向や法治主義を謳っても、端から法を遵守する精神などなかったのです。その結果、ラテンアメリカはどうなったか。理論上は“完璧な法律尊重主義”とされながら、実際には法の下の不平等が横行する土地になったのです。
ラテンアメリカにおけるキリスト教の布教は、ヨーロッパのようにそれぞれの土地の文化と折り合いをつけながら進めていく方法ではなく、先住民の“浄化”のための大規模でうわべだけでの政策が推し進められました。先住民のリーダーたちは苦渋の選択を強いられます。スペイン的な世界観を受け入れるか、地位を剥奪されるか、いずれかを選べというのです。結局は特権を奪われ、辺境に追いやられてしまいました。こうして先住民たちは支配される側、民主階級に位置づけられました。人種的にも民族的にも完全に差別され、どんなに努力したところで征服者と同等に扱われることはあり得ない。やがて卑屈な態度と、スペイン人すなわちキリスト教徒は絶対であるという価値観を植えつけられていきます。
p162-3
(冷静な大学生の目線。なかなか辛らつ)
“貧者のための教会”が機能するかどうか怪しいし、とてもじゃないが強い影響力を持つとは思えない。…(中略)…
活動は初めのうちは歓迎されるだろう。民衆を魅了し、感傷的な一部の支配者層の心にも響くかもしれない。それがユートピアを夢見るような非現実的で影響力のほとんどない集会のうちはいい。ひとたび実現の可能性のある運動に発展したら最後、状況は一転する。財閥は利権を死守すべく、犯罪者も同然に神父たちを叩きのめすにちがいない。マスメディアはこぞって彼らを共産主義者だと喧伝し、もはや民衆はふたりを貧者に身をやつしたよき王様とは見なくなるだろう。…(中略)…
優しさによっても説得によっても変革を成し遂げることはできない。その最たる失敗例がほかならぬイエス・キリストだ。何しろ彼はその優しさによって不当な裁判へと導かれ、その説得力によって自身をゴルゴダへと追いやったのだから。
p200-201
マルコス・アギニス 「逆さの十字架」 八重樫克彦/八重樫由貴子・訳 2011年 作品社
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