日本語版にて、表紙にあの絵を使うのはまずいと思う:Susan Vreeland “Girl in Hyacinth Blue”

これも古いFigaroに紹介されていた一冊。というか、今更ながら白状すると、私の「積んどく本リスト」の本は、大概三浦しをん女史のエッセイに紹介されていたものか、古いFigaroに紹介されたもので構成されている。とにもかくにもこの”Girl in Hyacinth Blue”はFigaro出身。

フェルメールの一枚の絵をめぐり、時代がさかのぼっていきながら、その絵の所有者だった人たちのお話。つまり、フェルメールの絵をアクセントにした短編集だった。大体は各話の登場人物が、どうやってその絵を手に入れて、どういういきさつで手放すことになったのかが書かれている。しかしだからといって、絵にスポットライトがあたっているわけではなく、どちらかというと所有者に光が当てらている。

ということで、絵をめぐって怒涛のような冒険譚が繰り広げられるわけでもなく、かといって絵を探求していくような物語でもなく、実に穏やかな絵をキーにした、人々の営みが描かれている。読む前は、それこそ「ダ・ヴィンチコード」のフェルメール編のようなイメージを持っていた私としては、意表をつかれた感じだった。でも考えると、フェルメールの絵の物語ならば、このような静かな話がぴったりだったと思う。

簡単にどのように絵が渡っていったのかをたどっていくと;

場所はアメリカ。高校で美術教師をしている語り手に、同僚の数学教師が絵を見せる。彼曰くそれはフェルメール作だという。彼の父親が手に入れずっと隠し持っていたというのだ。彼の父親がナチ軍入っていた頃あるユダヤ人家に押し入り、そこの男の子を蹴り飛ばし、ついでに壁にかかってきたその絵を奪ってきた。息子である数学教師は父親の罪に苛まれながらも、その絵を愛し、最終的に同僚の美術教師に見せることになったのだった。(Long Enough)

ナチ占領下のオランダ。主人公は両親にも祖母にも問題児扱いされている女の子。その子がユダヤ人で弟がいることから、この子が数学教師の父親に蹴られることとなる子だ、と瞬時に察せられる。
ここでは絵は話の中心ではなく、少女が父親と散歩がてらにドイツからのユダヤ人亡命者が資金集めの為に開いたオークション行き、父親が競り落としたというエピソードが入っている。そして主人公は、その絵に描かれている少女にシンパシーを感じているという位置づけ。(A Night Different From All Other Nights)

時代は下っているのだろうが、はっきりした時代は分からないが年頃の娘を持つ父親が主人公。娘が婚約者を連れてやってきて、その二人と夫婦二人と犬が散歩しているシーン。奥さんが娘の結婚祝いに家の壁にかかっている絵をあげようと言うが、旦那がしぶる。絵はほとんど出てこないで、絵に描かれている少女からの連想で旦那の初恋話が引き出される。そして今の夫婦の情愛へ。(Adagia)

この話でも絵は話の中心ではない。今回の所有者は、夫とともにその赴任先であるオランダにやってきたフランス人婦人。夫がご当地のあまり名の知られていない画家の絵というその絵をプレゼントする。話の中心となるのは絵というよりも音楽となる。延々と惚れ込んだバイオリニストの話や演奏会の話が続いた後で、不倫現場を夫に見つかったのが原因で、オランダにも夫にも未練のない婦人はパリへと夜逃げすることになり、その際にあっさりこの絵を路銀稼ぎと売ってしまう。(Hyacinth Blues)

洪水後のオランダ。子供二人をかかえる農家の若奥さんがこの話の主人公。ある日彼女たちのボートに赤ちゃんが置き去りにされていた。赤ちゃんとともに絵が置いてあって、この絵を売って養育費のたしにするように、とメモが添えられていた。若奥さんはその絵に魅かれていき、心のよりどころになってしまい売るに売れなくなってしまうが、最後の最後には泣く泣く売ることとなる。(Morningshine)

この話は、中盤くらいになって気づくが、前の作品の赤ちゃんの出生にまつわる話。農家の若奥さんは、赤ちゃんの母親が裕福な家出かと想像しているが実は違って、ちょっと気違いの女と風車作りの男の間で秘密に生まれた子だった。母親は双子で生まれた自分の子のうち、一人を殺した咎で処刑されてしまう。男は身を隠し生き残った方を育てようとするが無理で、母親が好きだった絵と一緒に置き去りにする。(From the Perspnal Papers of Adriaan Kuypers)

やっとフェルメールの登場となる。自分が描いた、何をするまでもなく佇む女性の絵なんか必要とする人がいるのだろうか、と疑問を持ちながら貧しい暮らしをしている。ツケを払うために絵を描こうとするがなかなか画題を思いつかない。そこへ騒いでいる娘のふとした瞬間の表情を見て、この娘を描くことを決める。(Still Life)

ここで時の流れが逆流して、父親に描かれた娘の話になる。彼女は自分が美人じゃないと思っているのだが、父親に描いてもらうこととなる。しかしその絵は売れず、父親が若く亡くなった後にツケがたまっていた雑貨屋さんに渡す。そうして彼女は結婚し中年になって、ある日父親の絵が沢山集まったオークションに行く。そこで自分の絵に出会うのだった。(Magdalena Looking)

話の中では農家の若奥さんの話と最後の話が好きだった。そして好きな表現方法は、フェルメールの絵が題材となっている本書からと思うと心苦しいが、音楽家との不倫のシーンより;

And I did forgive, for his hands played me like a beloved instrument. He danced his fingers across my throuat pianissimo and excuted a flissando down my spline. (…….) I’ll just say that his strings were swelling into a vibrato. He uttered a soft, cry, in tremolo, until he sang one thin note, falsetto.

p101

全体的に静かな話で、朝の通勤中に読んでいた私は“眠い”という印象を持つのを禁じ得なかった。再読する際には気持ちに余裕がある時に、温かい紅茶を片手にゆったり読みたいと思う。

(Susan Vreeland “Girl in Hyacinth Blue” 1999, Penguin Books)

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