料理がそんなできなくても憧れてしまった この生活:小川糸「食道かたつむり」

どこかで書評を読んで、暇だった母が本屋に二日通いつめて読破し、「面白いよ!」と薦めてきたのが「食堂かたつむりだった」。普段小説を読まない母が珍しいな、と思い、さっそく図書館で検索をかけると、予約待ち。というわけで母に倣って本屋に通いつめることにした。
本屋に悪いよなぁ~と思いつつも読み始めれば、一気にその世界にのめりこみ、時には涙しそれを必死に隠すという苦労までして立ち読みする(ま ジュン○堂だったので座れることもあったけど)。やはり二日、通いつめて。
でも、あと最後の数ページというところで、号泣モードに入りそうでどうしても読めない!となってしまって、二日も通ったくせに、そして9割がた読んだというのに、結局購入してしまった・・・ たは~何のために通っていたのか。本屋さんには良かったかもしれないが、なんとも悔しさを感じる。

とは言いつつも、これは買う価値はある!と思っている。多分あのまま完読しても文庫化したら買ってたと思うし。

作者の小川糸さんは作詞家なだけあって、言葉一つ一つがとてもキラキラ輝いている。例えば、倫子が田舎に戻ってきたばかりのシーンにて;

 どれもが、懐かしくてくすぐったくなるような、けれど手のひらで今すぐ握りつぶしてしまいたくなるような景色だった。

p41

とか、倫子が自分のなくなった声に対してのコメント;

 私の声も、もうすでにかれ果てていて、ピンセットでちょっとつまんで動かしたら、簡単に体からポロリと離れて永遠に居場所を失ってしまいそうな気がする。

p144

だとか、飾られた美しさではなくて、身に沁みる美しい言葉で綴られている。だからこそ主人公が持つ心の痛みみたいなものが、うそ臭かったり誇張された感があったり、悲劇のようなドラマチックな悲壮感もない。逆にすーっと心に入ってくるせつなさで、心の琴線に触れるってのはまさにこのことだなぁと思える一冊だった。

肝心な話はというと、主人公は倫子。母親と確執があり、田舎を早々に出て東京の祖母の家で暮らす。この祖母が料理好きで、倫子はここで料理を学ぶのだった。しかしその祖母も亡くなり、いつか自分の料理屋を開くことを目標にコツコツお金を貯めながら、インド人の彼氏と一緒に暮らしていた。ところがある日、バイトから帰ってくると、家の物が一切合財なくなってインド人の彼氏共々も抜けの殻になっていたのだ。

貯金もなくなり(箪笥預金していたから)、所持品といったら祖母から譲り受けた糠床のみ、挙句の果てには声まで無くして、田舎に帰ることになったのだった。

母親とは確執があるものだから、母親を頼ることはできない。
そこで母親に借金をして、食堂を開くことにしたのだった。

その食堂が「食堂かたつむり」。
1日一組だけ受け入れ、しかも実際に食べに来る前には倫子との面接が必要、とちょっと変わった食堂となる。
そうして食べに来る一組一組にドラマがあって・・・というお話。

先に読んだ母には「最後がショックだよ~」と言われていたが、確かに結構ショックだったし、それでいて妙に納得した。

もしかしたらうがちすぎかもしれないけれど、最後の話は「食べる」ということは何か、そしてそれに付随して「生きる」とは何か、というものが2つの死によって表されているのだと思う。そう考えるとそれまで綿々とつづられていた料理のシーンと食事の風景の終結点が、そのエピソードだというのが道理にかなっている気がする。

そして声が戻るというイベントが、それから一拍おいてあるのがまた良かった。つまり、物語が最高潮になっているシーンで(多分一番にぎやかなシーン)どばば~んと声が戻って感動の最後!とならなかったのが、元のひっそりとした雰囲気に戻して終わる、という感じで良かった。

(小川糸 「食道かたつむり」 2008年 ポプラ社)

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