その後、三郎はどうなってしまったのでしょうか:舞城王太郎「暗闇の中で子供 The Childish Darkness」

舞城王太郎、第2弾目。

この作家を教えてくれた友達を倣って、作品の発表された順に読んでみることにした。というわけで「暗闇の中で子供」。

前作品の続き物になっていて、今回の主人公は四郎から代わり三郎。それでも活躍しているのは四郎。前作から三郎のダメっぷりは好きだったのだが、こうも四郎ばかりが活躍して、四郎に「アホ」だの「死ね」だの言われてると、なんだかやるせなくなり、作者がいやんなっちまう。

さて、事件はというと全作品の連続殺人の模倣犯が現れたところから始まる。あ、物語自体は美少女がマネキンを田んぼに埋めているのを三郎が見つけるところから始まるんだった。

とりあえず、その美少女も連続殺人の模倣をマネキンで行っており、それと同時に本当の殺人も例の連続殺人を模倣して行われていた。

とまあ連続殺人事件がまた起きるのだが、前作に続きそんなのはメインではない(ように見える)。
そのマネキンを埋めていた美少女・ユリオは精神的に病んでいるところがあって、縁あって三郎が引き取る形で共同生活を行うことになる。

なんというか話がとりとめなくて、まとめるのが面倒くさくなってしまったので、キーワードを上げると;事件の真相は巨大おもちゃを人間で作ってみた、そのおもちゃを使うのはオゾンを与えられて育った巨人(子供)、三郎はキッチンの床下のちっちゃい倉庫にもぐりこむ、お腹を切られお金が埋められるという事件が起こる、三郎も切られるがお金は入っていない、それは医者の仕業で手術中に置き忘れたメスを探しての事件だった、前作でこん睡状態だった母親は覚醒し男といなくなる(らしい)、前作で「河路夏朗」は失踪した二郎だと四郎は推理したが実は違った・・・

そして極めつけは、最後の最後に三郎が手足を切られるのだ!!

納得がいかん!!!! 三郎プチ・ラブの私としては納得がいかなすぎて、作者を恨みたくなる

とまあ、最後は気に入らねども、話の流れ方はテンポよくて本を置くのも惜しいくらい。
多分、話の筋は作者にとっては最重要点ではなかったのでしょう。ということで、これからは登場人物にそこまで感情移入せずに、物語の結末もさほど気にせず、物語の流れに身をまかせるのを楽しみながら舞城王太郎の作品を読むことにしようと思う。

最後に、三郎が小説について語ったところで;

 さて物語とは一体いかなるものなのか?
 …(中略)…ちょっと考えただけだと、人の想像力が物語を作っていることは間違いないように思える。全ては想像力が基盤であるように。…(中略)…でももしそれが正しいのならどうして想像力って奴は物語なんかに精力を傾けることにしたんだ?…(中略)…喜びも悲しみも楽しみも寂しさも現実にあるもので十分なのに、どうして作り話が必要になるんだ?作り話はつまり嘘の産物だ。何で嘘なんかがここに介入して来たりしたんだろう?
 俺は答えをちゃんと知っている。それはつまりこういうことなのだ。
 ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ。
 …(中略)…ムチャクチャ本当のこと、大事なこと、深い真相めいたことに限って、そのままを言葉にしてもどうしてもその通りに聞こえないのだ。…(中略)…言いたい真実を嘘の言葉で語り、そんな作り物をもってして涙以上に泣き/笑い以上に楽しみ/痛み以上に苦しむことのできるもの、それが物語り。

p33-35

というのが前に村上春樹のスピーチで語られていた内容と似ている気がする(私の記憶が正しければ)。

(舞城王太郎 「暗闇の中で子供 The Childish Darkness」 2001年 講談社)

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