山内練は片えくぼ:柴田よしき 「聖母(マドンナ)の深き淵」

柴田よしきの2作目の小説「聖母の深き淵」も、RIKOシリーズだった。

この中で緑子は、息子・達彦を出産し、新宿署を離れ辰巳署に勤務している。それでも安藤とは結婚しておらず、妹に達彦の面倒を見てもらいつつ、シングルマザーとして働いている。

んー やぱり緑子ってあんまり好きになれないなぁー 女であることを武器にして正論ぶろうとしているのが、なんとも気に食わない。性に合わないってやつですな。

でも、そんなことより、山内練が初登場でしたよーーーーーーーー!!!!!
ぎゃーーーー!!!てか、当初は中性的な顔立ちで、えらい別嬪さんっていう設定ではなかったのね。

というか、即座に山内の好きな人が麻生元刑事ってのが分かったし、麻生が緑子に語る“警察を辞める理由となった愛してしまったヤクザの女”ってのが実は山内のことってのもすぐ分かったけど、んーむー。わたしゃやっぱり、しおらしい山内より、気違いじみた山内が好きだな~

だって;

「ああ」
 囁くように頼りなく、彼は答えた。
「愛してる」

p320

なんて、ぎゃーーー 山内が言うなんて。いやいや山内がそう言うのはいいのだよ。でもそれを緑子に言うなんて!!言うならハナちゃんに言ってくれ!!

ってほど、緑子が好きじゃないみたいです、私。

つい山内話で盛り上がってしまったが、事件の方はというと。

辰巳署で起きた殺人事件と、ひょんなことで緑子が人探しをした挙句、その人が殺された事件が、実は結びついているのではないか、ということで両方の線で捜査していくうちに、四年前に起きた幼児誘拐事件が浮かび上がってくる、というお話。

ま、事件としては大してびっくりな話ではないけれども、多種多様な人物が出てくるのなかなか面白かった。
トランス・ジェンダー、売春する主婦、レズビアン、ゲイ、やくざ、刑事、元刑事・・・
こういう人たちが、物語の飾りのように出てくるのではなく、臨場感があふれているのがよかった。

特にトランス・ジェンダーである豊のこの言葉が良かった;

「これまでわたしの人生は、ただただ、自分を女の子として認めて欲しい、それだけでした。男の肉体を持って生まれてしまったわたしにとっては、それだけが総ての目標だったんです。女として認識して貰い女として扱ってさえ貰えれば、何もかもうまくいく。そう信じてずっと来ました。だから少しでも女の子らしくしよう、女の子として見て貰えるように振る舞おう、誰にでも好かれる可愛い女の子になろう、そうやって夢中になってやって来たんです……でも、わたしは本当はわかっていませんでした。女の子らしさって何かということを。いえ、女とは何かということについて、ちゃんと考えてみたことがなかったんです …(中略)… そして気づきました。わたしがなりたいと望んでいた女の子というのは、もしかしたら、男の側がそうあって欲しいと願う形での女なのではないのだろうか、と。…(中略)…可愛らしく微笑み、お洒落をし、優雅に振る舞い、優しい声で話す女。わたしが目指していたのものは……男に好かれる女、それだけでしかなかった …(中略)…
彼女達は女として生まれたのに、幸せになれなかった。男達によって踏み潰されてしまいました。女であるということだけでは決して幸せにはなれないんです。そんな当たり前のことを、わたしは考えたこともなかった。…(中略)…女になるということは、いえ女であるのだと主張するということは、それによって背負わなくてはならない重荷もすべて受け入れるということです…(中略)…」

p146-148

こういうのを書けるのは、女性だからだろうな、と思う。

この作者と時々、フェミニズムの考えが露見しすぎなきらいがあるけれども(本人が意図しているかは分からないけど)、そこが男社会の巣窟である警察の中での女刑事、という立場が効果的に浮き上がっているのも事実。それにとどまらず本作は、男性が過剰評価する母性愛から起きる事件、上で引用したトランス・ジェンダーのいう“女”とはなにか、というのとかが、物語のBGMのように流れていて、本書を魅力的なものにしていると思った。

ま、緑子は虫が好かないけどね!

(柴田よしき 「聖母(マドンナ)の深き淵」 1996年 角川書店)

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