昔、本気で小熊が欲しかった:中沢新一 「熊から王へ カイエ・ソバージュII」


それはそれは昔に「世界最古の哲学」を読んで、面白いなぁと思ったことをふと思い出したので、その続編となる「熊から王へ」を読んでみた。

人類学には結構興味があって、「伝説」やら「神話」やらも興味あるし、その背景に流れる人類史みたいのにも多いに興味があるのだが、いかんせん門外漢の身としては何を読んだらいいのかも分からんしまつ。

そんなわけで「熊から王へ」は、中沢新一氏が中央大学で行った講義をまとめたものであり、そんなわけで語り口調だったので、とても読みやすかった。
今回のテーマは「野生」と「文化」。あるいは「国家」ができるまで。

一応、もくじを羅列すると;

序章   「ニューヨークからベーリング海峡へ」
第一章 「失われた対称性を求めて」
第二章 「原初、神は熊であった」
第三章 「海岸の決闘」
第四章 「王にならなかった首長」
第五章 「環太平洋の神話へ I」
第六章 「環太平洋の神話へ II」
第七章 「「人食い」としての王」
第八章 「「野生の思考」としての仏教」
補論   「熊の主題をめぐる変奏曲」

一般的に、“野蛮な地”といえば未開地のような、なんの法律もなく統制されていない所を思い起こし(インディアンなんて長い間“野蛮だ”と思われていたように)、逆に“文化的な地”といえば、アメリカが象徴するような、秩序があり国家としてなりたっている所を思い浮かべる。

ところが本当は逆なのだ、というのが本書の争点となっている。
まず一番の前提は、神話というのは国家を持たない社会が持っているということ。
そしてそのような社会は自然と人間の間に越えられない溝はなく(動物は毛皮を脱いで人間のようにふるまえたり、人間と動物は婚姻関係を結べたりできた)、“人間と動物の間や人間同士の間に、「対称的」関係が築きあげられて(p10)”いたのだ。

つまり、今のアメリカだの日本だの、“国家”と呼べるものがある社会は、それとの逆をいっているので「非対称的社会」なのだ。
その「対称的社会」というものこそ、いわゆる“文化”といえる。
つまり「文化」というのは「自然(野生・野蛮)」と対称的なものであって、自然界と「対称的社会」を営んでいる人間界は、そのまま「文化」を担っているわけだ。
では“文化”を内包する「対称的社会」はどういうものなのか。
それが綿々と語られているのだが、そこは割愛して(面白いなと思ったのは後述するけど)結論を述べると。

生活をするためには動物を狩らなくてはいけない。狩りをした後、人間たちはその動物を丁寧に解体し、骨まできちんと尊厳のある扱いをする(そうしないと、人間には狩られたくないと動物たちが思って、不作になるから)。

あくまでも対称性を大切にする彼らは、食欲に負けて食い散らかすこともなく丁寧に食べるのだ(食欲に負けてガツガツ食べるのは動物=自然(野生))。
何よりも面白かったのは、首長=権力者では決してないということだった。そもそも“権力”自体が対称的社会には存在しない。

では首長とはどんな人だったのか;

①首長は「平和をもたらす者」である。首長は、集団の緊張を和らげる者であり、そのことは平和時の権力と戦時の権力が、たいがいの場合は分離されていることにしめされている。
②首長は、自分の財産について物惜しみをしてはならない。「被統治者」によるたえまない要求を斥けることは首長にはできない。ケチであることは、自分を否定するに等しい。
③弁舌にさわやかなものだけが、首長の地位を得ることができる。

p137

こうして「非対称的」になることを恐れた彼らは、自然の中にある「権力」を自分の内に取り入れることなく、それに近いことを冬にのみ行ったとしても、夏と冬を明確に分離していたのだった。
面白いことに、平和的に和解させようとする首長の働きが聞かなかった場合、戦となるのだが、そうなると首長ではなく、まったく違った戦専用の長が現れるのだ。そして戦というのは野生(自然)の行為であるため、戦が終わって村(文化的社会)に戻った時には、戦の長は引っ込んで、また首長が村を取りまとめるのだ。

最後にいかに「国家」、つまり自然界にあるはずの「権力」を包括した社会ができたのか、という説明は、日本神話の「八岐大蛇伝説」に表されている。
つまり、超越的存在(自然)の八岐大蛇を、これまた超越的なスサノオノミコトが倒し、首長の娘と結婚する。

ここまではそれまでの「対称的社会」を表す神話と同じかもしれないが、このスサノオノミコト、八岐大蛇から出てきた、良く切れる刀(草薙の剣)を持って国を治めるのだ。
この“良く切れる=殺傷能力が著しくある=野生”の剣を持つ、ということはすなわち、権力を持つ、国家ができる、ということなのだ。
というわけで、いかに“文明的な”現社会は“野蛮”を内包しているか、というのが本書が導き出した結論。

というのが、私が理解したところです。
最後にちと長いが、面白いなと思った事項の一つを抜き出す;

 狩人は自分の家から離れた瞬間から、特別の「狩りことば」を使いだします。シベリアの狩人は、「狩りに行こう」というかわりに「家のうしろに行こう」と、遠慮がちの提案をする必要がありましたし、狩りをする場所は「ずいぶんな道のりを行かなければならないおばあさん」などという、遠回しな表現をしなくてはなりません。森は「枝のない木々」ですし、小麦粉は「灰」、鍋は「かけら」、茶碗は「円いもの」、銃は「白い鶴」、火薬は「黒い小麦粉」です …(中略)…
 日常生活では「ことば」と「もの」が、惰性でべた(『べた』に傍点)にくっついてしまっている傾向がありまう。それでことばというものが、「自然」とは異なる「文化」の原理を体現している本質が、消えてしまいます。そこで「文化」の行為を携えて、流動的な力の領域に踏み込んでいることを表現するのに、「ことば」と「もの」が極端に分離された状態で、言語活動をしてみせる必要があるでしょう。茶碗を「茶碗」と言うだけなら、「ことば」は「もの」に付着してしまいますが、それを「円いもの」と言えば、「ことば」ともの」の間には遠回りのバイパスのような媒介状態がつくられます。

p94-95

<中沢新一 「熊から王へ カイエ・ソバージュII」 2002年 講談社>

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