松本清張にいっぱい食わされましたわい!:松本清張「砂の器」


母が面白いよ~と言っていて、古本屋の100円均一のワゴンの上にあったので買ってみた「砂の器」。後で聞いたら小説で読んだのではなく、映画を観たのだそうな。しかも「ピアニストが出てくるよね?」と言い出すしまつ。出てこないよ!!

それはともかく、松本清張は「点と線」とあと短編をひとつしか読んだことがなく、しかも「点と線」は時刻表の話だったので恐ろしくつまらなかったので、不安だったが杞憂に終わりました。
シルバーウィークに東北へ行った機に、「東北弁が出てくるらしいし、丁度いいじゃ~ん」と思って持っていったのですが、全然ちょうどよくなかったのは、またご愛嬌。

蒲田駅の安酒場に、あやしげな男2人連れが現れたシーンから話が始まる。
男の一人は白髪交じりで、東北弁っぽい言葉を使い、もう一人は顔がよく見えなくて声も聞こえなかったが、若いっぽい。二人の会話は小さくてほとんど聞こえなくて、唯一目撃者が覚えている単語は「カメダ」だけであった。

その白髪交じりの方が次の日、線路上で死体となって見つかる。
しかも顔が殴られ、電車が気づかずに走り出していたらもっと悲惨になるくらいな方法で。
これは怨恨に違いない、というところまでは分かったのだが、身元すらも分からない状態がしばらく続く。

目撃者の”東北弁”と”カメダ”という証言をキーに、ひたすら探し回るのだが1ヶ月以上過ぎても遥と進展しない。
それと同時進行に、その当時の流行として「ヌーボー・グループ」という若い芸術家が一世を風靡していた。その中には過激に論破することで有名な評論家・関川、先進的な音楽を創る作曲家・和賀もいた。

彼らの視線と捜査状況が交差しながら話が進む。

やっと被害者の身元が割れたが、なんと、彼は東北出身ではなかった!
真反対の岡山出身だったのだ!!!
それにすっかり絶望した刑事の今西。
しかし執拗な捜査で、岡山の出雲地方の方言は東北弁ととてもよく似ていて、ズーズー弁をしゃべることを突き止める。そして確かに被害者の三木謙一もその方言を使っていたのだった。
ところが動機が一向に見えてこない。

というのは、三木謙一は非常にできた人で、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩のような人なのだ。
三木謙一の過去や殺されるまでの足取りを洗うと同時に、ちょいときな臭い「ヌーボー・グループ」の足取りも捜査していると、二人も死んでしまう。

これは怪しいゾとなるのだが、死因はあくまでも自然死。

にっちもさっちもいかないぞーーとなるのだが、ここは今西。
ちょっとずつちょっとずつ、砂を崩すがごとく、犯人の鉄壁な犯罪を壊していくのだ。
最終的な動機は「ええええ!そんなことで、あんないい人を殺すの!?しかも自分の恩人じゃん!!」だし、凶器も「ええええ!そんなんで本当に人を殺せるの!?」という感じだけど、全体的にはとても面白かった。

普段、スピーディーにダイナミックに、ばばばばっと犯人が見つかるものばかり読んでいるせいか、こうやって、じっくりゆっくり捜査していき、時には見当違いな推理だったり、壁にぶち当たったりしながら、ちょっとずつ解決していく、というのは逆に新鮮でした。
しかも、最後に今西たちがとった、逮捕の仕方も心温まるやり方だった気がしました;
(ここから激しくネタばれなので注意!)





(渡米する飛行場にて、犯人が見送りの人々と別れた後)
「すみませんが」
 待合室にはいる前、吉村は和賀を陰に呼んだ。
 そこには今西栄太郎が立っていた。
「せっかくのところ、すみませんが」
 吉村はポケットから封筒を出し、中の書類を出して作曲家に示した。和賀英良は、ふるえそうな手でそれを取り、動揺した視線を走らせた。逮捕状だった。理由は殺人罪の疑いとなっている。見ているうちに和賀英良の顔から血の気が引き、瞳がぽかんと宙に浮いた。
「手錠は掛けません。表に署の車が待たせてありますから、おいでを願います」
 吉村は、親しい友人のように彼の背中へ手を回した。(p476-477)

なんと紳士的なことか!
殺人犯といえども、きちんと敬意を示しているのがいい!
確かに和賀は殺人を犯し、それは複雑な生い立ちがあったといえども許されないことだけれども、彼の音楽家としての才能や名声を考慮したうえで、ひっそりと逮捕したところに、今西の人情というか人間性が出ている気がしました。
最後に。
上で「そんなことで人を殺しちゃうの!?」的なことを書きましたが、もちろん当時の社会的状況から、彼が自分の出自をひた隠しにしたかったのは分かります。
そんな彼だったから、他のヌーボー・グループの人に蔑まれても、大臣の娘と結婚しようとしたのでしょう。
でもね~ 音楽家でありながら、そういう情感みたいな部分を失くして、自分の恩人を殺すのはこれいかに、とも思うわけです。
とこれ以上書いても、言い訳のようであり、結局、そういう境遇より恵まれた環境にいる者にとやかく言う資格はないような気がするので、この辺にしておきますが。

<松本清張 「砂の器」 1961年 光文社>

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