司馬遼太郎は見事な白髪:司馬遼太郎「アメリカ素描」


時代小説は好きな部類に入るのに、なぜか司馬遼太郎をあまり読んだことがない。
高校時代に学校からの宿題で「竜馬がゆく」を読んだことがあるのだが、どうしても好きになれずに挫折した。

その後も何か短編を読もうとしたか、読んだかしたけれども、何を読んだか記憶もなく、ただ「やっぱり好きじゃなかった」という印象しかない。
あんなに好かれている作家なのに、どうにもこうにも好きになれずに(その理由の一つに、司馬遼太郎の代表作の舞台が、自分の好きじゃない時代ってのがあるだろうけど)、これは“相性が悪い”ってことなんだろうなと思っている。

でも実は、やっぱり高校時代に国語の教科書に(ちなみに宿題は日本史の宿題だった)司馬遼太郎のエッセイが載っていて、非常に心に残っていた。
それはアメリカのことで、まだアメリカに行ったことがない筆者が、アメリカに行こうと誘われたが躊躇している、という話だった。その中で、在日韓国人の知人が「もしこの地球上にアメリカという人工国家がなければ、私たち他の一角にすむ者も息ぐるしいのではないでしょうか」(p19-20)と言った、という話が非常に印象的だったのだ。

そうして何年か経ち、古本屋で「アメリカ素描」が売られているのを見て、その国語の教科書の内容をまざまざと思い出させられ、思わず買ってしまった。
そうしたら前述の在日韓国人の話が、やっぱりというかあって、それは本書の冒頭に綴られていたのでなんだか懐かしかった。

結論から言うと、第一部の方が第二部よりずっと面白かった。
ちなみに第一部では司馬遼太郎は初めて渡米し、カリフォルニアに行く。

そして第二部では東部に行っている。
第一部では主に“文化論”的なことが書かれていて、それが面白かった。
それが第二部となると、“アメリカとは”とか“アイリッシュとは”という話になって、それが割と押しつけがましい気がして(断定的に書かれているので)、反抗的な読者としては、なんだか嫌だったのだ。
基本的に本書は、司馬遼太郎がアメリカに赴き、そこで人に会ったり、街を訪れたり(日本に関係のある街だったりすることが多い)しながら、つらつらと思考を書いているので、あらすじというものがない。

でも前述したように、彼の“文化論”というのは、さすが司馬遼太郎、非常に面白かったり、なるほど!ということが多かったので、自分のためのメモ代わりに抜粋する;

 多民族国家であることのつよみは、諸民族の多様な感覚群がアメリカ国内において幾層もの濾過装置を経てゆくことである。そこで認められた価値が、そのまま多民族の地球上に普及することができる。
 右のことは流行で考えればいい。たとえばジャズはアメリカで市民権を得たからこそ世界へ普及できたのである。文明というのはそういう装置をもっている。

(p27-28)

→確かに日本のアーティストでも、日本で活躍するよりアメリカで活躍した方が有名になる。なにもそれは日本だけではない気がする。というのはイギリスにいる時、売り出し中のミュージシャンとなると、彼らがイギリス人であっても、全米チャートが引き合いに出されていた。これもそういうことなのだろうか?

 文化とは基本的には、人と共にくらすための行儀や規範のことで、母親の子宮内では養われず、出生後の家庭教育や村内での教育による。井上ひさし氏は、これを、他の哺乳類がもたない「第二の子宮」だとどこかで書いていたが、みごとな把握である。「第二の子宮」こそ煮つめていえば文化であり、その共有された類型こそアイデンティティーであるといえる。

(p51)

「日本人は他国をみる場合、たぶんに情緒的になる」
 という意味のことをあるアメリカ人の著書で読んだ。たしかにわれわれはペリーでさえ開国の恩人とみている。その基礎に情緒的なアメリカ好きの感情がある。しかし、アメリカ人の場合はちがうだろう。目前のテーマについて明晰な論理を構築することがすべてで、その場合過去の歴史的事情などを情緒的に加えない。たとえ親日・知日派であってもである。その点、かれらのほうがわれわれより男性的なのである。

(p110)

「日本史には、英雄がいませんね」
 と、私が尊敬するアメリカ人が、好意をこめていったことがある。そのとおりである。英雄とは、巨大なる自己と、さらにはその自己を気球のように肥大させてゆく人物のことである。名声への自己陶酔と、さらなる名声の獲得にむかって行動する精神のダイナミズムと考えていいだろう。それらを一人格のなかにもっている人物をさす。また最後には支持者をうしなうと、いっそう英雄像が濃厚になる。できれば悲劇の最期を遂げ、その人生が詩になれば、いよいよ英雄である。アレキサンダー大王やシーザー、項羽、あるいはナポレオンを思えばいい。ただ私たち日本人は、それを出さない文化に属している。私はそれはそれで日本の幸福のひとつだと思っている。
 それにひきかえ、アメリカは、つねに英雄を待望している社会である。大観衆をあつめるスポーツはそのためにのみあるといいたいほどである。

(p134)

→もしかしたら「英雄」というのは、ある程度の個人社会の中でしか生まれないのかもしれない。日本は善行を行っても目立たず、むしろそのまま姿を隠す方が美徳とする風潮がある(もしくは、あった)ように思う。つまり善行をひけらかさず、群衆の中の一人でないといけないのだ(逆に、善行をアピールしたら顰蹙をかう)。ま、それも個人主義になりつつある現社会では薄れてきているようだが。だからイチローなど「英雄」が生まれてきたのかもしれない。

(ゲイであるワデル博士に「葉隠」について語っている)
 しかしながら一面においては大した思想書だとも思うのだが、しかし多分に不条理で美学的な内容だから、アメリカへ輸出できるような普遍性はもたない。文化とはそういうものである。
 アメリカにあっては、ゲイという存在についてさえ、ゲイたちは法的公認という普遍性をもたせようとする。「忍ぶ恋」からみれば、ミもフタもなく、アジもソッケない。しかし文明とはそういう合理性をもったものなのである。

(p172)

<司馬遼太郎 「アメリカ素描」 平成元年 新潮社>

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