必ずや「失われた時を求めて」を読破する!:井上究一郎 「ガリマールの家――ある物語風のクロニクル」


ずいぶん昔に「書評家の<狐>の読書遺産」(山村修・著)を買い、思い出したかのようにそれを読み始めたところで、むくむくとそこに紹介されている本が読みたくなってきた。というかすべてを制覇したくなった。
非常に短い文でどこか繋がりのある2冊を評しているもんだから、その2冊ずつ対で読んでいったら面白いだろうな、と思ったのだ。

ということで壮大(?)な野望が始まったのだが、まず一組目の「学究のパリ、文士のパリ」より「ガリマールの家――ある物語風のクロニクル」を。ちなみにこれの対になるのは「下駄で歩いた巴里」で、今目下読書中だ。
まず最初に断っておかなければならないのが、

わたくし、この書評を読むまで、プルーストだとか「失われた時を求めて」とか知りませんでした。お恥ずかしながら。
だから、これはいかんと思って、「失われた時を求めて」を借りて読み始めたが(しかも井上究一郎氏翻訳の)、あっけなく脱落。だって文章が読みにくいんだもーん!「。」っぽい文章なのに「、」で終わってたりさー!!

そんなこんな訳で、こんなわたくしが読んだ「ガリマールの家」の感想です。という断りです。
つまりフランス文学とかプルーストが好きだったら非常にワクワクしただろう、ということ。
さてさて、本書の冒頭はガストン・ガニマール氏が亡くなったというニュースから始まる。

無知な私としてはガストン・ガニマールとは誰ぞや?という感じだが(そして読者が知っているのを前提のように話が進む)、その後の説明とかから分かるのが、ガニマール氏はガニマール書店の店主で、プルーストの「失われた時を求めて」はここから出版されたらしい。
ガストン・ガニマールについて説明が3章に渡ってあった後(しかも論文っぽい口調で)、4章は

 私は約一年のあいだガリマールの「家」に住んだ。

(p38)

といささか唐突に始まる。
そこから作者のパリでの生活模様の話が始まるのだ。それを前出した山村修氏は

その一行によって、あたかも「開け、ゴマ」の呪文がとなえられたかのように、新しいふしぎな時空が開けてくる。文学者の研究的エッセーと見えていたものが、その一行を境に、エッセーでもなければまた小説でもない、これまで読んだことのないジャンルの書きものになって立ち現れる。

(「書評家<狐>の遺産」p11-12)

と評している。
確かに、それをキーワードにして井上氏のパリ生活の話が始まるのは面白い構成となっている。
しかも、そのパリの生活では、ガリマール氏には一度も会ったことがなくても、プルーストの縁の地や人々を訪ねたり、偶然に新しい人脈を得たり、と随筆のはずなのに物語チックである。

「表大門がひらかれるたびに、建物を管理している門番の女が電気をボタンで押して、階段をあかるくすることになっていた」とプルーストの説明にもある小説のゲルマントの館(『ソドムとゴモラ』第二部第一章)とおなじミニュトリ(瞬間点滅灯)の仕掛をもった表大門、その電気のボタンを押した瞬間だけぼっと闇の底から浮かびあがる中庭に敷石、同様のボタンをつぎつぎに手さぐりながらのぼってゆくだだっぴろい階段、その高い、行きつく先に私を待っている孤独、研究の前途に対する恐怖!

(p47)

なんて部分を読むと、「孤独」だとか「恐怖」だとかいう言葉があれども、物語に出てきたシーンの中にいる感動が伺える。というか、物語の世界(2次元の世界)とエッセーの世界(3次元の世界)が入り混じった感じがして、それがこの本を一貫してあるわけだから、なるほど面白い。
でも冒頭で述べたとおり、そういう作家だの小説を知らないものとしたら、まったくもって“蚊帳の外”にはずされたよう。
教養の無さが悔やまれた一冊だった。


井上究一郎 「ガリマールの家――ある物語風のクロニクル」 1980年 筑摩書房

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