そういえば「嵐が丘」のバレエを観たな:エミリー・ブロンテ 「嵐が丘」


「書評家<狐>の読書遺産」の2組目、「思い出のマーニー」と対をなしているのが「嵐が丘」だった。
そかも鴻巣友季子さんの訳が、それまでの訳から飛躍的に発展した、といった趣旨のことが書かれていたので、あえて鴻巣友季子訳のを買ってみた。

実は若い頃、文学少女をきどっていわゆる“文学”と呼ばれている本を読み漁っていた。でもその中に「嵐が丘」は入っていなくて、それはなんでかというと「ジェーン・エア」を読んで、ほとほと懲りてしまったからだった。
あの陰気さと、なんだか分からないけど狂気めいた感じが本当に馴染めなくて、同じ姉妹が書いた「嵐が丘」なんて、手を伸ばす気が全然しなかったのだ。
でも常々「嵐が丘」を読まなくては!なんていう義務感(?)を感じていたので、「書評家<狐>の読書遺産」がいい機会だと思って、図書館から借りても期間内には絶対読み切れないだろう、という自信のもと、書店から購入したのであった。

そしたら

面白かったーーーーーーーー!!!!!

こんな面白い本をずっと読まなかったなんてなんてもったいない!と心から思う。


多分「ジェーン・エア」を読んだのは、割と早すぎたのかもしれない。「嵐が丘」だってある程度大人にならないと面白くなかった気もする。
あらすじはどこでも手に入るだろうし、私が敢えて書かなくてもいっかな、と思うのでここでは省略。
感想をつらつら書くとする。
まず誰もが驚くと思うが、ヒースクリフの捻じれた愛というか執念には心底びっくりした。
キャサリンが死んでしまって

「じゃ、ひとつ祈りを唱えてやろう――舌がもつれるまでくりかえしてやる――キャサリン・アーンショウ、俺が生きているうちは、汝が決して安らかに眠らないことを!おまえは俺に殺されたと云ったな――なら、この俺にとり憑いてみろ!殺された人間は殺した人間にとり憑くものなんだ。そうだ、過去には幽霊たちはこの地上をさまよってきたじゃないか。いつでもそばにいてくれ――どんな姿でもいい――俺をいっそ狂わせてくれ!おまえの姿の見えないこんなどん底にだけは残していかないでくれ!ちくしょう!どう云えばいいんだ!自分の命なしには生きていけない!自分の魂なしに生きていけるわけがないんだ!」

(p349)

と言うところなんて、愛憎がうまく(というのも変だけど)織り混ざっていて、彼の狂気じみたキャサリンへの愛にはびっくりしてしまう。

そう!“びっくり”という言葉しか思い浮かばないくらい、ヒースクリフの言動には驚いてしまった。
彼の悪魔的性格をこんな克明に描くのは、日本文学ではなかなかお目にかからないんではないか、と思った。“狂気”とか“愛憎”というのはあっても、“悪魔的”を前面に出すのはなかなかないと。
“悪魔的”というのは、「こうなってしまったのにも彼には言い分があるはず」と良心的に読んでしまう読者をことごとく打ちのめすのをここでは指している。

確かにヒースクリフには復讐する理由というものがあるけれども、その理由ですら忘れてしまうくらいの凄さなのだ。

そしてヒースクリフだけでなく、彼の息子のリントン、キャシーとエドワードの娘のキャサリン、嵐が丘の下男のジョウゼフだって歪んでいる(特にリントンは嫌いだった!)。
その歪みの次にびっくりした、というか引っかかったのは、結局、嵐が丘って何の物語だったのか、ということだった。

確かにヒースクリフとキャシーの愛の物語が根底にあるかもしれないけれど、後半はキャシーの娘のキャサリンに焦点があたる。
そうなると人と人との愛憎劇、というよりも、家と家との確執物語、と話の様相が変わっていく。それが飽きさせない原因の一つかな、となんとなく思った。

一貫してなんとも読み心地のいい作品だった、とは言えないものだったけれども、最後の最後に“憎しみ”という負のものが、キャシーとヘアトンの関係によって昇華されていく感じで、読了感はほっとするものであったのもよかった。
以上、つらつらととりとめなく思ったことを書いたが、今度是非とも原書で読んでみたいと思う。


エミリー・ブロンテ 「嵐が丘」 鴻巣友季子訳 平成15年 新潮社

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