『メジャースプーン』のふみちゃんが出てきた!:辻村深月 「凍りのくじら」


「子どもたちは夜と遊ぶ」にいたく感激し、そのまま予約して借りた「凍りのくじら」。
すっかり「子どもたちは~」の熱が冷めて、「剣客商売」なんて読んでいるうちに、あれよあれよという間に返却日に。慌てて読み始めたら、またもやドッカーン!!!と来ましたよ!

なんというか、またもやどんでん返しがあって、してやられてしまいました。
「冷たい校舎の時は止まる」とか「子どもたちは~」とか本書とかに出てくる、この“どんでん返し”っていうのはそんな目新しいものではない。知ってしまってから振り返ると、本当に単純なことだったりする。

あまつさえ、今回は途中でなんとなく分かっちゃったし。
だのに、その“どんでん返し”が来たときには、突然今までのことがダダダダ―っと返されていく感じがして、その嵐といったら激しいなんてもんじゃない。
言うなれば、物語の要所要所に“伏線”という名の地雷が埋まってて、“どんでん返し”がスイッチとなり総て爆発する感じ。
それくらい衝撃的な“どんでん返し”なのだ。

本書はその“どんでん返し”が引き金となり、もう本気泣きしてしまって大変だった。
なんとなく明け方に目が覚めて、何をトチ狂ったか本書を手に取ってしまい、もうそれが最後だった。
おかげで今朝は目がむくんでやばかった。。。
<ここから先、激しくネタばれ注意!>



主人公は、父親譲りの藤子・F・不二雄を愛する高校生の理帆子。
ドラえもんが本当に大好きで、それを象徴するかのように、本書の章タイトルはすべてドラえもんの道具の名前である。
理帆子の父親は有名な写真家だった。しかし胃癌に侵され、家族の前では死にたくない、という理由で失踪してしまう。

そうして母親は女手一つで理帆子を育てるのだが、ある時、また癌で倒れてしまう。
父親の友人で、父親に対して深い恩を感じている、有名な指揮者・松永がこの二人を経済的に支援しているので、金銭的な心配はない。

が、理帆子は毎日、自分が『sukoshi fuzai』であることを自覚しながら、夜は合コンや飲み会に明け暮れ、学校では自分を取り合っている二人の女の子の間にいる。
ある時、高校の先輩に写真のモデルになってほしい、と言われる。彼の名前は別所あきら。高校三年生という。

最初はモデルの話を断るのだが、非常に聞き上手な人で、理帆子は今まで誰にも語ったことがないようなことまで話す。
理帆子の割と辛らつな、自分自身も入れた人間観察・分析を中心とした日常生活の話に、事件性を添えているのが、理帆子の元彼・若尾である。

彼は司法試験を目指す、司法浪人生で、理帆子とは彼が大学生の時に知り合った。
顔の造作は非常に美しいが、性格に難ありの人で、一応彼が理帆子を振った形になっているが、理帆子としては未練がない。
執着があるのは若尾の方で、“友達として”理帆子に会いたがり、理帆子もなんとなく会ってしまっている。

そうこうしている内に、若尾は外見的にも豹変てしまい、しゃべってみれば益々“痛い人”になっていて、理帆子はようやく若尾を切る決心をつけるのだった。

そんな折に、気分が悪くなって早退すると、別所を見つける。
別所は理帆子には気付かず、その時電車に乗ってきた小学生の男の子と親しげだ。
なんとなく別所とその男の子に着いて行くと、見知らぬ駅で降りて行って、男の子は「坊っちゃん」と呼びかけるお婆さんに連れられて帰っていってしまう。

またそこに行くことがあって、理帆子はついにその男の子とお婆さんと知り合いになるのだが、その男の子の名前は郁也。ある事情により声が出せない。
そしてなんと、松永の私生児だったのだ。
郁也とお婆さん・多恵の交流をはかっていく中、ついに母親の死期が訪れる。
ここがまず涙所なのだが、亡くなる前に、父親の写真集を出させてほしいという出版社の依頼を承諾した母親。
いつも父親の写真のレイアウトとかを決めるのが仕事だった母親は、今回もレイアウトを決めていく。
母親の死後、その出来上がった写真集を見るシーンが号泣。
母親が写真に添えた言葉というのが、もう… 泣かせるための言葉と分かっていながらも、号泣するのは不可抗力。
あー 多分、自分がどっちかっていうと母親っ子だからかな。そういうシーンは無条件に泣けてしまう。

それはさておき、いよいよ若尾の言動がおかしくなっていく。
ついには郁也を誘拐したような言葉を残して、自殺未遂まで起こしてしまう。
必死で郁也を捜しに行く理帆子。
昔、若尾とデートで行った山にたどり着き、そこに打ち捨てられていた冷蔵庫から郁也を助け出したところで、別所に出会う。

郁也を背負い、別所と話しながら山を下って、人がようやく見えて来た時、別所は足を止める。
そこで気付くのだった。
別所こそ、理帆子の父親だったということ。

あー もうなんというか。
別所が理帆子の父親なんじゃないかな?っていうのは、割と前に気付いていたし、ありがちといえばありがちな展開なのに、何度読んでもこのシーンは泣ける;

 彼がゆっくり、とてもゆっくりと懐中電灯を動かして、私の顔に光を当てる。強い光だった。正面からそれを浴びた私は、射貫かれたように立ち竦んだ。眩い灯りに隠れて、それを私に向ける別所の顔の方は、もう見えなかった。
 彼が言った。
「『テキオー灯』」
 その声が震えていた。何かに耐えるように、細かく微かに震えていた。…(中略)…
「二十二世紀でも、まだ最新の発明なんだ。海底でも、宇宙でも、どんな場所であっても、この光を浴びたら、そこで生きていける。息苦しさを感じることなく、そこを自分の場所として捉え、呼吸ができるよ。氷の下でも、生きていける。君はもう、少し・不在なんかじゃなくなる」
 穏やかに彼が含み笑う気配があった。
「道具の名前を忘れるなんて、理帆らしくなかったね。『のび太の海底鬼岩城』。理帆が大好きだった映画だ。有効期限があるから、注意して。この光の効力が続くうちに、自分の力でなんとかするんだ。大丈夫、君なら必ずそれができる」
 私は固唾を呑んで、身動きができずにいた。温かい光。顔を包む、私の身体をすっぽりと覆う。別所の声が、また微かに震えを浮かべた。愛おしさを滲ませ、けれどそれ以上に込み上げる痛みに耐える響き。
「いつも君を思ってる。僕も汐子も、君のことが大好きだ。世界中の誰が駄目だと言っても、僕らは言い続けるよ。理帆子は、誰よりもいい子だ」

(p525-6)

引用が長くなってしまったけれども、もうここで号泣ですよ!

“理帆が大好きだった映画だ”という何気ない台詞も、別所=お父さんの理帆子への愛情がにじみ出ているように感じるし、なによりもお父さんが別れを惜しんでいる、というのがまたくる。

なんというか、愛する人が姿形を変えて現れる、という話はよくあるが(といっても総てのそういう作品を読んだわけじゃないけど)、大概そうやって現れた人は、別れる時は毅然としている気がする。
“じゃあ、もういくね”というのに、「待って!」と追いすがる現世の人、という構図を容易に思い浮かべるもんだ。

でも本書は、別所=お父さんは愛しさや悲しみに耐えきれないかのように震えている。
それが最大の号泣のツボなんじゃないかな、と思うのだった。
理帆子は、両親がいなくなってしまって、いわゆる天涯孤独になってしまったのだが、今までソリが合わなかった母親の死によって、失踪した父親が姿を変えて現れたことによって、二人の自分への愛の深さを知ることができて良かったと思った。


辻村深月 「凍りのくじら」 2008年 講談社

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