「書評家〈狐〉の読書遺産」で「志ん朝の落語」と対になって紹介されていたのが本書、「能 梅若六郎」だった。
〈狐〉の中でのタイトルは「声が聞こえる、姿が見える」となっていて、双方の声を言及しているが、“音と無音”をテーマに選んだように感じた。“無音”というと語幣があるかもしれなくて、抑制された音というのが近いかもしれない。
何しろ「志ん朝の落語」では、その内容そのものよりも、京須さんが志ん朝さんの落語をテープからどう起こしたか、はては音を文章に起こすというのに着眼しており、「能 梅若六郎」では
フランスの代表的な演劇学校の創立者で、ジャック・ルコックという人がいる。そのルコックは教室でまず発生を禁じ、沈黙するところから教えたといい、次のように語っている。「まだ言葉を発していない前の、生まれたてのような初々しい状態、その沈黙が言葉を生む」。そうして沈黙の稽古を繰り返すうちに「言葉にさきだつ瞬間の感覚が甦ってくる」という。
「書評家〈狐〉の読書遺産」山村修 2007年 文春新書 p27
と引用してから、梅若六郎が謡いだすと「言葉にさきだつ瞬間の感覚」のようなものを感じると描いている。
能と歌舞伎はよく比べられるが、能と落語を対になすというのは珍しくとても新鮮だった。
それはさておき本書の内容はというと、写真集となっていて末尾に梅若六郎さんの言葉が添えられている。
能の方は何回か観たことがあるので、写真から雰囲気を感じることができたが、いかんせん全く初心者も初心者なので、正直梅若さんのどアップの写真だけでは、ぴんとこない演目もあった。
というか、また能を観たくなってしまったというのが正直な感想かも。
文章の方は能について、と、梅若六郎さんの新作能に携わった経緯などが書かれていた。
新作能の存在を知らなかったので観てみたいなと思ったのと(特に「ジぜル」!)、戦国時代の武将達が
当時、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの脳を愛好した武士たちは、勝っても負けてもみな修羅道に落ちるということを承知で能を演じ、観ていたわけです。
(p238)
という言及が印象的だった。
なんでも戦で勝つ演目(例えば「八島」)でも、めでたしめでたしで終わることがなく、はかない感じで終わっていくらしい。
丁度武士が台頭した頃に出来た芸能だからなのだろうか…?
あと最後に個人的に。
私は歌舞伎が大好きなのだが、能好きの友人に「能楽師の人が歌舞伎は派手すぎる、もっと演劇は簡素化した方が本当は美しい、と言っていた」というようなことを言われて、まぁ そうかもしれないけどさー、ともにょもにょ思ったものだ。
そんなことがあったもんだから、梅若さんが
「道成寺」という曲は緊張感のある能ですが、演者のほうがそれを強いるのではなく、観客のほうが舞台に引きずり込まれていき、そのなかで緊張していく、というのが本当だと思います。…(中略)…その点うまくできているのが舞踊の「京鹿子娘道成寺」です。舞踊にはあまり緊張感というものはありませんが、例えば、衣装の色によって踊り分けをするなど、さまざまなテクニックが駆使されています。違う意味でたいへん優れた作品だと思います。
(p208-9)
と書いているのを読んで、無条件で「いい人だ!」と思ってしまった。
そんなので「いい人」というのはどうかと思いますがね……
梅若六郎+高橋 「能 梅若六郎」 2003年 平凡社
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