シリーズの中に親子ともどもあるのはすごいな:幸田文 「幸田文 ちくま日本文学005」


“ちくま日本文学”を買い揃えたいと思った矢先に、Bookoffで売ってたので即購入。
でもそのまま本棚の肥やしになっていたのを、図書館で借りれない状況になってからその他肥やしと共に読むようになり、ついには旅行先にて読み終わった「幸田文」。

旅先で読むのにちと適していなかったが。
というのは、幸田文の作品は、なんだかいつも切なくさせる。ほろ苦いというのか、なんというのか。
多分それは、気が強いけれども、自分のことを評価できない幸田文の性格が、その鋭い観察力を自分にも発揮して描写しているのが一つの理由だと思う。

これまで幸田文のエッセイを読んで、一つ気になったのが、自分のことを盛んに「ひがみ根性のある」と形容することだった。そりゃあ父親が立派な作家で、非常にできて美人な姉と、待望の男の子で可愛がられている弟に挟まれていたらひがみもしますよ、と思ってしまう。
しかも、その姉も弟も亡くしてしまってがっかりした父親を見たり、継母と折り合いが悪かったりしたら余計である。

でも本書を読んでやっと気づいたのは、幸田文が「ひがみ根性のある」と自分を形容するのは、晩年、幸田露伴と共に暮らして、父親も他の子ども達と同様に自分にも愛を注いでくれたと気づいたからだ、とやっと分かった。
それが分かっても尚、幸田文のエッセイは物悲しさ・せつなさが伴う。
それはなぜか、と思ったときに思い出したのが、エッセイに出てくる幼少期の幸田文も、父親のことが大好きだったのが伺われることだった。
なにせ本書には、父親を尊敬し始めた瞬間、というものもよく覚えていたみたいで、明記されているくらいだ。

そうやって親から子どもへの愛や、子どもから親への愛がきちんと存在しているはずなのに、それがうまく結びついていないようなのが切ないのかもしれない。

 なぜ、大人の世界と子供の心のなかには誤差ができるのだろう。

(p412)

という一文にははっとさせられた。
文豪の娘であり、しかもその家庭事情は複雑。
それを文豪の父譲りの筆致と観察眼で描けば、うっすらと切なさがかった(決して切なさは前面に出てこない)微妙な風合いの文章になるのかな、と思った。

最後に本書に掲載されている作品を列挙すると以下の通り;

  • 勲章
  • 姦声
  • 笛*
  • 鳩*
  • 黒い裾*
  • 蜜柑の花まで
  • 浅間山からの手紙
  • 結婚雑談
  • 長い時のあと
  • みそっかす

ちなみに*は小説。
「笛」と「黒い裾」は幸田文の人生経験が割りと多く投影されているような感じ。
「鳩」は耳の不自由な少年の話。


幸田文 「幸田文 ちくま日本文学005」 2007年 筑摩書房

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