“ザ・ヒヌマ・マーダー”じゃなくて“ザ・ヒヌマズ・マーダー”じゃないのかなぁ:中井英夫 「虚無への供物」


中高時代に一番はまったのが推理小説で、しかも「本格」と呼ばれる島田荘司から始まり、綾辻行人やら有栖川有栖やら法月綸太郎やらにはまっていたのだが(こう羅列すると関西系の人が多いな)、中でも有栖川有栖の江神さんシリーズが好きだった。
その江神さんと主人公アリスが出会ったシーンで、江神さんが持っていた本こそが「虚無への供物」。
しかもそれをきっかけに、アリスが親近感がわいて江神さん所属のサークルに入るもんだから、気になってしかたなかった。

だからもちろん高校の時に読んだのだが。
正直、高校生の時は何が面白いのかちっとも分からず、あまりインパクトもなく(あえて言うなら、なんでこれが絶賛されるのだろうというインパクト)終わってしまったのだが、社会人になって三浦しをんのエッセイだかを読んでる時にも「虚無への供物」が出てきて絶賛している。
あれから月日が経ったのだから、私の見解も変わっているだろう。面白みが分かるだろう。
そう思って、古本屋の百円コーナーに置かれてるのを買ってみて読んだのだが。

だが。

やっぱり面白いと思わなかったな・・・

なんというか。
まず主人公格の久生という女性が非常に気に入らない。
もう口ぶりからしてダメ。
「いきなりこんなことをいっても、アリョーシャには難しすぎたわね」だとか、アリョーシャこと亜利夫がちょっと意見しようとすると「いいから黙って」とぴしゃり。何様のつもり!?って感じ出し、そもそも久生より亜利夫の方が真相に近かったし。
同性のせいか、余計久生がいやでイヤでしょうがなくなるのだった(ちなみに三島由紀夫は好きらしい)。

そして第二に、登場人物たちがすぐ推理ごっこをするのは辟易だった。
近親者が死んだというのに、その死をめぐっての推理ごっこというのは非常にいただけない。
そこが推理小説の難しいところなのかもしれないが、私が接してきた推理小説はその配慮が割りとなされていたと思う。
例えば、死者と関係者とはつながりのない第三者である探偵が推理したり、関係者でも“やむなく”推理をせざるを得なかったり、江神さんのように殺人が起きる群集の中で、疑心暗鬼になるのから逃れるために犯人を告発したり。
それが本書には一切なく、“ザ・ヒヌマ・マーダー”なんていっちゃって、まるでエンターテイメント。
特に久生がきゃっきゃと身を乗り出してるから余計にイヤになる。
推理小説が好きだけれども、ある程度のリアリティを求める私にとってはそこまで面白いと思わなかった。

とはいっても、江神さんに本を持たせるくらい有栖川有栖が好きだったのは分かる気がする。
これは本当の推理オタクにとっては非常に面白い本の構成だと思うのだ。
一つの事件があったら、何人もの登場人物がそれぞれの推理を披露する。しかもそれぞれ密室で、有名な推理小説を引き合いに出しつつ論じたりするものだから、そりゃあ推理好きにとっては、登場人物と一緒に推理する気持ちで楽しいと思う。

そしてそれが悲劇の核となっていた、ということがうまくできたカラクリだと思う。
それにしても、全然話を覚えていないかと思いきや、読んでみたらあらすじもおぼろげに覚えていたし、犯人ももちろん覚えていた。我ながら天晴れ。


中井英夫 「虚無への供物」 昭和49年 講談社

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