ついに読み切ったぜ、第一巻:マルセル・プルースト 「失われた時を求めて1 第一篇 スワン家の方へ1」


「書評家の<狐>の読書遺産」に出てくる本を制覇しよう!という企画の栄えある(?)一冊目が、「失われた時を求めて」を訳した井上究一郎氏の随筆で、しかもプルーストにまつわる随筆だったものだから、その時から「失われた時を求めて」には大変興味があった。
興味があったついでに、井上究一郎氏訳の「失われた時を求めて」を図書館で借りてもみた。
でも内容が、まっっっっっっっったく頭に入らず、ただ機械的にページをめくる、ついには寝てしまう、ということを繰り返し、あっという間に返却日。
そうやって涙を呑んでお別れした「失われた時を求めて」だったのだが、その後読む本にことごとく出現する。
そうやって物語の隙間から私を恨めし気に見るもんだから、「1Q82」でも“時間が余っている時に読む本”といった風に出てくるし、ブラジルに出張に行く機会(『どうせ一人でブラジルだからさぞかし暇だろう』ということで)に最初の2冊を購入に至った。

井上究一郎氏訳の本に手を伸ばさなかったのは、ま、挫折した歴史を持っている不吉なものにわざわざお金を出すのもどうか、ということと、鈴木道彦氏訳の本の方が注釈がいっぱいな上に、登場人物の説明、全体的なあらすじがついていたのが魅力的だったからだ。

さて、読んでみて驚いたのが、まあ、スルスル読めることよ。
なんというか「青白い炎」という超難解な意味不明な本を読んだ後のせいか、すんなり読める。
すんなり読めたついでに気付いたのが、前回読んだ時に読みにくいと思った理由だった。
「失われた時を求めて」は、非常に時間を把握するのが難しい。つまり、これは過去のことなのか、現在のことなのか、過去であってもどれくらい過去なのか掴むのが恐ろしく難しいのだ。
ある一行では主人公は非常に子どもなのに、突然青年になっていたりする。
おまけに章が変わることもないのがまた難解。
でもその“癖”みたいのが分かると、自分が実際に過去に思いを馳せているように、時系列は無視しながら、あちらこちらに想いを飛ばす感覚になって読みやすくなる。

あと驚いたのが、主人公が少年時代に想いを馳せているものだから、「銀の匙」をはじめとする清らかで繊細な物語をイメージしていたのだが、全然そんなことなかったということ。まあ、導入部分でも割と“エロティック”な表現があることからして、そうでないのも想像できるだろうけど。
あらすじは極めて語るのが難しいので省略。
ま 言うなれば、主人公が大叔母が住んでいたコンブレーに休暇ごとにやってきた思い出をつらつらと述べる話なのだが、やたらと沢山登場人物がいて、その一人一人のことが割と細かに描かれている。
以下は現在の私が気にいった個所の抜き書き;

 過去を思い出そうとつとめるのは無駄骨であり、知性のいっさいの努力は空しい。過去は知性の領域外の、知性の手の届かないところで、たとえば予想をしなかった品物のなかに(この品物の与える感覚のなかに)潜んでいる。私たちが生きているうちにこの品物に出会うか出会わないか、それは偶然によるのである。

(p107-108)

この後に、有名なプチット・マドレーヌを紅茶に浸して食べた時、その味によってコンブレーのことを思い出す、というシーンが続く

【教会の描写1】

その墓石ももうそれ自体、生気のない固い物質ではなくなっていた。というのは、時がこれら墓石をやわらなかくしてしまい、その四角い形を越えて外側にまで蜜のように流し出していたからで、あるところでは墓石が金色の大波になってあふれ出て、花と咲いたゴシックの大文字を一つ引きずってこれをゆらゆらとただよわせ、大理石の白い菫を見ずに沈めるかと思うと、他方、手前側では墓石が四角形の内部に吸収されて、省略されたラテン文字をいっそう短いものにし、その簡略化された文字の配列に新たな気紛れを持ちこみ、ある語のなかの二文字を近づけてみたかと思うと、ほかの文字を途方もなく引き離しているのだった。

(p138)

【教会の描写2】

教会のステンドグラスは、太陽があまり顔を出さない日こそ最も美しく輝いていたから、外が曇りであれば教会のなかは晴れにきまっていた。

(p138)

まさにその通り!と思ったので。この後に延々にこのステンドグラスの説明がつくのだが、それもなかなか良い

【ルグランダン氏について。彼はお気に入りの登場人物だったのだが、後に、実はそんな人ではなかった、と発覚してしまう。非常に残念だが、やっぱり彼はいい。まずはその人柄】

人によっては、科学者として輝かしい成功を収めながら、その経歴以外のところでも文学や芸術などまるで異質な教養をもち、専門の職業には利用できないにせよ、会話にはそれを役立てる者がいるが、ルグランダン氏もその一人だった。

(p153)

こうなりたいものだ、という人物像

【ルグランダン氏について、その2。文学とか絵画に才能を持ちつつ、本業では…】

本来の職業に対しては、気紛れの混じった無頓着さか、あるいは持続的で、尊大で、軽蔑的で、苦々しく、しかも良心的な熱心さを持ちこむものである。

(p154)

というちょっとひょうひょうとしたところにやられた。

【ルグランダン氏について、その3。そしてこの言葉!】

「いや、まったくのところ、私の家にはありとあらゆる無用な品がごろごろしていますよ。足りないのは必要なものだけ。たとえばここみたいな、広々とした空がない。ねえきみ」と、彼は私の方を向きながらつけ加えた、「いつもきみの生活に、大空のかけらをとっておくんだよ。きみはは美しい魂、類い稀な魂を持ち、芸術家の天性を備えている。それに必要なものを欠かしてはなりませんぞ。」

(p155)

大空のかけら!

【ルグランダン氏について、その4。主人公にかける言葉がまたまた!最初の一行はポール・デジャルダンの詩句】

「森はすでに黒く、空は未だに青し……
ねえきみ、空がきみにとっていつまでも青くありますように。そうすれば、今や私にとって訪れたこの時間、森はすでに黒く、夜の闇がたちまち落ちてくるこの時間にも、私が今やっているように、あなたは空を仰いで心を慰めるkとおでしょう」

(p261)

くさい台詞が“くさい”と思わせることなくさらりと書かれるのは、文学のいいところの一つのような気がする

私は他人の頭脳を生気のない従順な入れ物のように考え、そこに持ちこまれるものに特殊な反応を示すことなどできないと想像していた。

(p178)

だから少年である主人公は、大叔父の家で高級娼婦に会った話をしてしまうのだが、この考え方が面白いと思ったので。確かに時々自分の言うことに、人はその人なりの感情を抱く、ということを忘れてしまうことがある

【男の子のような少女・ヴァントゥイユ嬢の描写】

するとこの「さっぱりした子」の男のような表情の下に、もっと繊細な、涙に濡れた少女の顔立ちが照らし出され、透きとおるようにくっきりと浮かび上げるのが見られるのだった。

(p246)

サンザシの説明の途中に、この描写が出てくるのだが、続くサンザシの表現も次に

またそのとき花の上に、ブロンドの小さな斑点を見つけたが、ちょうどフランジパンの味がそのこげた部分に潜んでいたり、ヴァントゥイユ嬢の頬の味がそばかすの下に隠れているように、この小さなブロンドの斑点の下に花の香りが潜んでいるのではないかと私は想像した。

(p247)

太陽はまだ沈んでいなかった。そして私たちがレオニ叔母の部屋を訪れているあいだに、ますます低くなって窓に当たるようになった太陽の光は、大きなカーテンとその留め紐のあいだに引っかかり、細かく分割され、フィルターで濾されて、箪笥に使われたレモンの木に細かな金箔をはめこみ、森の下草を過ぎるときのような繊細さで、部屋を斜めに照らしだすのだった。

(p287)

文句なしの美しい描写。これ以外にも太陽の光に関して美しい描写はあったが、ここが一番よかった


マルセル・プルースト 「失われた時を求めて1 第一篇 スワン家の方へ1」 鈴木道彦・訳 2006年 綜合社

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