ショートケーキにチキンは誕生日というよりクリスマスの食べ物みたいだ:佐藤友哉 「1000の小説とバックベアード」


桜庭一樹を推薦してくれた友達にこれまた勧められたのが本書「1000の小説とバックベアード」だった。

しょっぱなから、こりゃ面白いと思ったのは、主人公が「片説家」であるという設定だったこと。
しかも「片説家」がなんであるかの説明は一切なく、さも「片説家」が普通の単語であるかのように、主人公が「片説家」をクビになるところから始まる。
読んでいくうちに分かるのは、「片説家」は小説家と違って、誰かから請け負って本を書くことで、普通のサラリーマンであるということ、そしてこの小説の中の世界では、小説に力がある(人を癒したり、情緒不安定にさせたりなど)ということ、だからこそ「片説家」は需要があり(カウンセリングのようなもの?)小説家とはまるっきり違う職業として成り立つようだ。

のっけから片説家をクビになるところから始まるのだが、その主人公のもとへ配川ゆかりという女性が現れる。
いわく、彼女の妹が失踪してしまったのだが、どうやらいなくなる前に主人公が勤めていた会社に小説を依頼していたらしい、その小説を是非読ませてほしいということだった。
こんな感じでハードボイルドチックで、ちゃんと探偵も現れるし、片説家と“ヤミ”と呼ばれる人たちのバトルが繰り広げられるっぽい…となかなか面白いストーリー展開になる。
しかも文章がとても独特で面白かった。

以前、同じ友人に舞城王太郎を勧められたのだが、それと似た匂いを感じる。舞城王太郎の「煙か土か食い物か」の出だしには度肝をぬかれたが、本書もにやりとしてしまいそうなひねくれ方が出ている文章で始まる;

 仕事をうしない、着弾点をわざと外されたような気分になったその日、僕は二十七歳になったけれど、家族からは愛されて育ったし、自分を嫌う子供じみた幸福時代は終わっていたので、コンビニエンスストアでショートケーキとワインを買って誕生日を祝おうとしたが、蝋燭がなかった。
 誕生日ご愁傷さま。
 アパートに戻った途端、チキンを買い忘れたことに気づく。ケーキとワインだけではどうも物足りない。だけどもう一度出かけるのは面倒だし、真夏にチキンは不釣り合いなので、冷蔵庫から生ハムとカットチーズを取り出して、八畳間の床に広げた。
 二十七歳の誕生日に自由にチキンを食べられないのは悲劇だ。
 さらに二十七歳の誕生日に仕事をクビになるのもまた悲劇だ。

(p7)

最後の二行のような、まったく同じ字数で羅列したり、繰り返したりするのがよく出てくる。これが視覚的にも訴えるものがあって面白いと思った。
 例えばただの会話文でも

「ねえ木原くん、探偵と一般人の違いってどこだと思う?」
「昼寝の回数でしょう?」
「まじめにやってくれよ」
「じゃあ頭脳の明晰さ?」
「猿でもできる仕事だね」
「殺人事件との遭遇率?」
「テレビの中だけの話さ」
「推理ができるところ?」
「うん、とても惜しいね」
「虚言癖があるところ?」
「うん、とても惜しいね」
「……こじつけですか?」

(p85-86)

とか

 銃口が光る。
 その瞬間、
 何かが聞こえた。
 低い低い音。
 高い高い音。
 その融合が、
 外から聞こえた。
 なんだ?

(p211)

とここまでくると詩みたい。
京極夏彦もこういう視覚的な部分にこだわりを持つ人だが、佐藤友哉氏はもっと効果的に使ってるのが面白かった。

「片説家」、失踪、探偵、ヤミとなると、なんだか村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」チックで面白い!という感じだったのだが、だんだんそれが暴走する感があったのが残念だった。
主人公は皆に否定されて、最後にはバックベアードにより、失格者の烙印を押されて地下の図書館に幽閉されていまう。
そこにいる二人の力を借りて脱走できるのだが、その途中でバックベアードに出会い、バックベアードにも認められる。そして外に出て小説を書こうとするのだが…という話なのだが。

「片説家」という架空のもので、下手すれば安直なファンタジーになりそうなところを、あくまでも当たり前のように書くことで現実に存在するように書くのに、私は好感を持ったので、後半部分であまりにファンタジーになったのがただただ残念だった。


佐藤友哉 「1000の小説とバックベアード」 2007年 新潮社

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