ラファエロだって最初から巨匠じゃない:ラファエロに影響を与えた画家たち

前回の記事では、ラファエロの生涯を見ていきました。

生涯を見て分かるように、確かにラファエロはルネサンスの巨匠のひとりではあるけれども、最初から大成していたわけではありません。
ウルビーノという小さい街から、ルネサンスの中心地フィレンツェへ、そしてローマで名声を得る、というサクセスストーリーの中には、画風の変遷というものがありました。

そしてこの画風の変遷は、様々な画家たちから学んだことがベースとなっています。
これはラファエロにオリジナリティがないという話ではなくて、他の画家たちの優れた部分を柔軟に、そして貪欲に吸収していって、自分のスタイルを確立していった証と言えるでしょう。

ということで、この記事では、ラファエロに影響を与えた画家たちを見ていきたいと思います。
その前に…当時と現代とでは”アーティスト”への期待値が異なるのは留意しておくべきでしょう。つまり、当時においては権力者に気に入られ、パトロンになってもらい、その後も継続して注文してもらえてなんぼなので、「自分を表現するため」の作品ではないということです。
それが何に繋がるかというと、その時に”巨匠”とされている作品にどれだけ寄せれるのかが、画家の技量になる(特に駆け出しの時)、ということなのです。

ではでは、今度こそ見ていきましょう~

※各画家の肖像画の出典元はWikipediaです。その他の図版の出展元は末尾に記載しており、各図タイトル後ろにある()内文字は出展元を示すものです。

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ペルジーノ(ピエトロ・ヴァンヌッチ)

ペルジーノ(1450頃-1523)

ペルジーノは”ペルージャの人”という意味で、本名はピエトロ・ヴァンヌッチといいます。

修行はフィレンツェのヴェロッキオ工房で行い、同窓にはボッティチェリやレオナルド・ダ・ヴィンチがいます。
ラファエロが生まれた頃、マルケ・ウンブリア地方で随一の大規模な工房を経営していました。注文も本拠地としていたペルージャだけではなく、様々な都市から多く寄せられるほど、大人気の画家でした。
ラファエロの父も尊敬しており、そこからラファエロをペルジーノに預けたといった説が生まれてきています。

ペルジーノの作品の特徴は、正確な遠近法の背景と、ほっそりとした人物にあります。そして深々とした豊かな色使いも特色の一つです。

前の記事でも記載の通り、ラファエロがペルジーノの弟子であった記録はありませんが、初期の作品には大きな影響を受けたことがありありとうかがえます。

例えば、ペルジーノとの競作のこちらの作品、上部をラファエロが、下部をペルジーノの描いているのですが、別の人がそれぞれ描いたという違和感を感じないほど、よく似ています。

どちらも顔はほっそりしていますし、指も長く繊細な描写になっています。
違いがあるとしたら、ラファエロの方が動きを感じられるというところでしょうか。

この時のペルジーノは巨匠、それに対してラファエロはまだまだ駆け出しの画家。そう考えると、ペルジーノと遜色なく描けているのが、いかに賞賛に値するのかが分かると思います。

サン・セヴェーロ教会の競作壁画, 1505-07年, フレスコ, 幅389m, ペルージャ サン・セヴェーロ教会 (a)

他にも大きな影響が見られる作品があります。

ペルジーノ《マリアの結婚》1500年頃, 板に油彩, 234x185cm, カン美術館(a)
《マリアの結婚》1504年, 板に油彩, 170x118cm, ミラノ ブレラ絵画館(a)

左がペルジーノの《マリアの結婚》、右がラファエロの《マリアの結婚》です。

ほぼほぼ同じ絵と言っていいくらいの、構図・内容が似ています。
逆にこれくらい似ていると違いが分かって興味深いのですが、こちらもラファエロの方が若干動きがあるように見えますよね。真ん中の人物の傾き具合や、マリアの優美なS字型カーブ、枝を折る人物の脚などがペルジーノの人物群より動きを持たせているようです。

このように多大なる影響を与えたペルジーノですが、影響を与えたのは作風だけではありませんでした。
当時のペルジーノは大人気がゆえに、膨大な数の注文を抱えていました。そこで編み出されたのが、徹底的な分業制で、ペルジーノは流れ作業・分担によって効率よく工房を管理していました。
この分業制による工房運営を、ラファエロは後に自分の工房を構えた際に踏襲するのです。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)

アートのことをまったく知らない人でも知っているであろう、ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ。

1504年頃にラファエロがフィレンツェへ移住した際、レオナルドもフィレンツェに戻ってきていました。
正式な文書としては残っていませんが、作品やスケッチからレオナルドとの交流があったことが見て取れます。

レオナルドは意外と完成された作品数は少なく、その代わり未完成品が多数あります。
当然、未完成品は世に出していないわけなので、ラファエロがそれにアクセスできたということは、レオナルドと交流があったということになります。

その良い例が、レオナルドと言えば…の《モナ・リザ》です。
今ルーブルに飾られている《モナ・リザ》は未完成品というわけではないですが、レオナルドが生涯手元に置いていた作品で、どうやら1504-7年頃に制作を開始したと考えられています。
となると、ラファエロがフィレンツェにいたときに制作されていたというわけです。

《モナ・リサ(ラ・ジョコンダ)》1503-5年頃, 板に油彩, 77x53cm, パリ ルーブル美術館(b)

そして、ラファエロによる《モナ・リザ》のスケッチが残っているのです!

《若い女性のスケッチ》1504-05年頃, ペン・黒チョーク, 22x16cm パリ ルーブル美術館(a)

現在ルーブルで見られる《モナ・リザ》とは背景など少し違いますが、真正面からとらえたのではなく、顔をやや外側に向けて斜めからこちらを見て、身体をひねりつつ胸元で手を組むポーズは《モナ・リザ》そのものです。

これまで肖像画というと、正面からとらえたものが主流でした。
ラファエロも、以前は正面からの肖像画を描いています。

しかし、レオナルドのこの4分の3面観は以後、肖像画の典型の1つとして継承されていくことになります。

ラファエロもしっかり踏襲していき、このスケッチだけではなく、実際の肖像画でも《モナ・リザ》によく似たポーズの肖像画を残しています。

《エリザベッタ・ゴンザーガの肖像》1502年, 板に油彩, 52.9×37.4cm, フィレンツェ ウフィツィ美術館(a)
《一角獣の貴婦人》1505-06年頃, カンヴァスに油彩, 板から移行, 65x51cm, ローマ ボルゲーゼ美術館(a)

背景もスケッチした《モナ・リザ》とそっくりですね!

肖像画だけではなく、フィレンツェ時代に傑作を残した聖母子像においても、レオナルドの影響が見られます。

ペルジーノの聖母子像というのは、垂直軸の強いポーズでした。
それに対してレオナルドの聖母子像というと、柔軟な動きで、聖母と子イエスが関連し合い、ゆったりとした有機的な流れが見られます。

その影響がよく分かるのがこちら。左がレオナルドで右がラファエロです。

レオナルド・ダ・ヴィンチ《ブノワの聖母》1478-80年頃, カンヴァスに油彩, 板から移行, 49.5x31cm, サンクト・ペテルブルグ エルミタージュ美術館(c)
《ナデシコの聖母》1507年頃, 板に油彩, 29x23cm, ロンドン ナショナル・ギャラリー(c)

レオナルドに比べるとまだ動きに硬さが見られますが、構図はほぼ一緒で、それでいて窓から穏やかな景色が見えるといったアレンジも見られます。

また、こうした直接的な影響だけではなく、下の《聖母子と洗礼者ヨハネ》では、レオナルドの作品に見られる人物群を三角形に配置することで調和させる構図や、丸顔の人物像といった特徴が見られます。

レオナルド・ダ・ヴィンチ《聖母子と聖アンナ》1503-1519年頃, 板に油彩, 168x130cm, パリ ルーブル美術館(b)
《聖母子と洗礼者ヨハネ(まき場の生母、ベルヴェデーレの聖母)》1506年, 板に油彩, 113x88cm, ウィーン 美術史美術館(a)

顔つきもなんとなく似ていますね。

と同時に、似ているところがあるからこそ違いもよく見えてきます。
レオナルドの背景は切り立った山が見えたり、地面がゴツゴツしていたりと険しい自然であるのに対し、ラファエロはなだらかな山に丸っこい丘、地面には草花が生えており、葉っぱですら丸っこく、かなり印象が違います。ラファエロの方が穏やかな感じがしますよね。

ただ模倣するのではなく、自分のスタイルに取り込んでいるのがよく分かる例ではないでしょうか。

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ミケランジェロ

ミケランジェロ(1475-1564)

レオナルド・ダ・ヴィンチと並んでルネサンスの巨匠といえばミケランジェロ。
レオナルドが天才肌の印象であれば、ミケランジェロは気難しいというイメージを持っている人もいるのではないでしょうか。

ラファエロともあまり仲が良くなかったミケランジェロですが、それはローマにいた頃。
最初に交流があったと考えられるフィレンツェにいた頃はそうでもなかったようです。
考えてみれば、フィレンツェにいた頃は、ラファエロはまだまだ新参者。ミケランジェロにとってライバルにもならなかった人物だったのでしょう。それに対してローマに居を構えた時には、めきめきと頭角を現し、教皇のお気に入りになったわけですから、ミケランジェロは大きな脅威に感じたのでしょう。

フィレンツェにおけるミケランジェロとの交流ですが、レオナルドと同じく正式な史料は残っていません。
が、ラファエロがミケランジェロの作品にアクセスし、学んだ形跡が残っています。

例えば、ラファエロがフィレンツェに来た頃、ミケランジェロは《ダヴィデ》像を完成させたのですが、その《ダヴィデ》像が台座に乗せられる前と思しきスケッチが残っています。
なぜ”台座に乗せられる前”と考えられているのかと言うと、台座に乗せられると見上げる形になってしまうところ、目線が像と同じ高さか、少し見下ろしているように見えるからです。

《ミケランジェロ「ダヴィデ」の後ろ姿のスケッチ》1507-08年, インク・黒チョーク, 39.6×21.9cm, ロンドン 大英博物館(c)

さてミケランジェロといえば、女性まで筋肉質な、肉厚な人物像が特徴と言っていいでしょう。
ラファエロがミケランジェロから学んだのは、この肉厚感になります。

フィレンツェ時代の作品で見られる影響の一例を見てみましょう。
まずはミケランジェロの作品です。

ミケランジェロ《聖家族(トンド・ドーニ)》1503-04年, 板にテンペラ, 径120cm, フィレンツェ ウフィツィ美術館(d)

ミケランジェロは自らを彫刻家と呼んでいましたが、それに納得できるくらい、肉厚感/塊感がある作品ですね。

こちらの作品の影響が見られるラファエロの作品がこちらです。

《バリオーニの祭壇画(キリストの遺体の運搬)》1507年, 板に油彩, 184x176cm, ローマ ボルゲーゼ美術館 (c)

なかでも、画面右側にいる、倒れ込む聖母マリアを体を下から支える女性に着目してください。
このひねった姿が、ミケランジェロの《聖家族》の聖母マリアから影響を受けているとされています。

それまで影響を受けていたペルジーノの作品は、人物像がほぼ正面を向いていたりと割と平面的な表現をされています。
ミケランジェロのこのダイナミックな動きは、フィレンツェにやってきたラファエロにいかに大きなインパクトを与えたのか想像に難くありません。

ローマにおいてもラファエロはミケランジェロから影響を受けています。

ラファエロがローマに着いた頃、一足先にローマに入っていたミケランジェロは、あの有名なシスティーナ礼拝堂の天井画を描いていました。
ミケランジェロは制作過程を周囲に見せたがらなかったのですが、どうやらラファエロは秘密裡に見ていたようなのです。というのが、ラファエロがローマに呼ばれるきっかけとなったブラマンテは、サンピエトロ大聖堂とヴァチカン宮殿の大改修の中心人物だったので、鍵を持っていたのです。

そんなこんなで、システィーナ礼拝堂の天井画は1512年に完成、お披露目となるのですが、同時期にラファエロが手掛けたスタンツァ(諸間)は、少しずつミケランジェロ色になってきます。

最初に手掛けた書名の間の《アテネの学堂》(1509-10年)では一点透視図法を活かした整然とした画面構成になっています。

それがヘリオドロスの間の《ヘリオドロスの追放》(1511-12年)、そして火災の間の《ボルゴの火災》(1514年)と進んでいくと、人物の動きがどんどんダイナミックとなり、画面構成もドラマチックに演劇的になってきます。

《ボルゴの火災》の筋肉隆々具合は、ミケランジェロをそのまま彷彿させますよね。

このスタンツァの大成功をきっかけに、ラファエロはローマで大人気の芸術家になるわけですが、ミケランジェロとしては面白くないわけです。

特に、当時のローマの教養人は、2つの対象を比較して優越を論じるのが好きだったのですが、そのお題にミケランジェロとラファエロの絵画の腕前がしばしば上がっていました。
彼らの結論としては、ミケランジェロは彫刻の腕前に関しては比類ないけれども、絵画においては、ラファエロの方が色彩の調和や優美さに優れている、としていました。

こうしたことから、ミケランジェロはラファエロに敵対心を持つようになったのでした。

「署名の間」《アテネの学堂》1509-10年, フレスコ, 幅約7.7m, ヴァチカン ヴァチカン宮殿 署名の間(b)
「ヘリオドロスの間《ヘリオドロスの追放》」1511-12年, フレスコ, 幅約750cm, ヴァチカン ヴァチカン宮殿 ヘリオドロスの間(b)
「火災の間」《ボルゴの火災》1514年, フレスコ, 幅約670cm, ヴァチカン ヴァチカン宮殿 火災の間(b)
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その他の影響

ペルジーノ、レオナルド、ミケランジェロはラファエロが主に受けた影響ですが、その他の画家たちからも積極的に学びました。

その中には北イタリアや北方の画家たちも含まれます。

例えば北イタリアに関しては、ローマへ向かう途中にヴェネツィアなどに寄った記録が残っています。
そこでの影響が見られる作品を見てみましょう。左がラファエロの作品、右がヴェネツィア出身の画家で後にラファエロと作品対決することになるセバスティアーノ・デル・ピオンボの作品です。

《バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像》1514-15年, カンヴァスに油彩, 82x67cm, パリ ルーブル美術館(a)
セパスティアーノ・デル・ピオンボ《女性の肖像》1512年, 板に油彩, 68 x 55cm, フィレンツェ ウフィツィ美術館(b)

上で紹介したラファエロの肖像画は、背景に風景が入っていました。
こちらの肖像画のように単色を用いるスタイルは北方イタリアの影響です。
ピオンボの《女性の肖像》でも単色ですよね。

また《女性の肖像》で左肩にかけている毛皮は、柔らかで毛羽立った質感まで描かれていますが、ラファエロの肖像画でも同じような質感で描かれているのが分かります。

北方の画家との交流としては、デューラーとの交流が挙げられます。

ラファエロとデューラーはお互いに作品を贈り合う仲で、ラファエロはデューラー(1471-1528)の版画を評価し、仕事場に飾っていました。

この版画というメディア。
実は、レオナルドもミケランジェロはまったく関心を持たなかったのですが、ラファエロはそのポテンシャルを察知し、積極的に版画に携わっていきます。

デューラーはその先駆者で、自分の作品を版画で広め、ヨーロッパ中から名声を得たことで有名です。
ラファエロの場合は自分では版画を作らず、優れた版画家であったライモンディを雇って、自分の絵画作品を版画で複製させたり、素描を渡してオリジナル版画を制作させたりしました。
こうして、ラファエロの作品はヨーロッパ中に広まったのです。

ペルジーノの工房のように、ここでもラファエロは作品の様式だけではなく、ビジネスそのものも良いものは積極的に取り入れる、という姿勢を見せています。

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おわりに

いかがだったでしょうか?
ラファエロの、貪欲なまでも良い物を取り入れていく、という姿勢が垣間見れたのではないでしょうか。

その姿勢が、時にはミケランジェロの時のように反感をかうときもあったかもしれません。
しかし、そこからは良い仕事をしたい、良い作品を作りたい、という強い意志が感じられます。

また絵が巧みなだけれではなく、ビジネスマンの側面があったことも興味深いです。
いかに効率的にクオリティ高いものを出していくかを追求し、そして自分の作品を広く知らしめるために新しいメディアを活用する。ペルジーノ・レオナルド・ミケランジェロのスタイルを取り入れるのも、その時代で求められているスタイルだからと考えると、マーケティングもしっかりしていたと言えるかもしれません。
そうなると、現代のビジネスの原則と変わらないですよね。

ラファエロは”ルネサンスの巨匠”という地位を自ら築き上げたと言っても過言でないでしょう。


次回の記事では、ラファエロの死後、どのように彼の作品が受容されたのかを見たいと思います。
お楽しみに!


図版の出展元

a池上英洋監修・執筆『ラファエロの世界』2012年、新人物往来社
bWeb Gallery of Art, https://www.wga.hu/index.html (2022/3/25アクセス)
c池上英洋『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ラファエッロ 生涯と作品』2009年、東京美術
dLe Gallerie Degli Uffizi, https://www.uffizi.it/en/artworks/holy-family-known-as-the-doni-tondo (2022/3/25アクセス)

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