坂口安吾の平安観:坂口安吾「道鏡」

白痴」に続いて「道鏡」を読みました(中央公論社の日本文学シリーズの中にどちらも入ってたから)。

「道鏡」はつまり、道鏡が主人公というよりも、その時代近辺の女性社会について書かれたもので、結構淡々と、小説というよりは、坂口安吾の意見のような一編でした。

その冒頭の平安時代観みたいなものが、すごく面白かったので、メモメモ;

 女性時代といえば読者は主に平安朝を想像されるに相違ない。紫式部、清少納言、和泉式部などがその絢爛たる才気によって一世を風靡したあの時期だ。
 けれども、これは特に女性時代というものではない。なぜなら、彼女らの叡智や才気も、要するに男に愛せられるためのものであり、男に対して女の、本来差異のある感覚や叡智がその本来の姿において発揮せられたというだけのことだ。
 つまり愛欲の世界において、女性的心情が歪められるところなく語られ、歌われ、行われ、今日あるがごとき歪められた風習が女性に対して加えられていなかったというだけのことだ。とはいえ、今日においては、歪められているのは男とても同断であり、要するに男女の心情の本性が風習によって歪められている。
 平安朝においてはそれが歪められていなかった。男女の心情の交換や、愛憎が自由であり、愛欲がその本能から情操へ高められて遊ばれ、生活されていた。かかる愛欲の高まりに、女性の叡智や繊細な感覚が男性の趣味や感覚以上に働いたというだけのことで、古今問わず、洋の東西に問わず、武力なき平和時代の様相はおおむねかくのごときものであり、強者、保護者としての男性の立場や作法まで女性の感覚や叡智によって要求せられるに至る。要求されることが強者たる男性の特権でもあるのであって、要求する女性に支配的権力があるわけではない。いわば、男女おのおのそのところを得て、自由な心情を述べ歌い得た時代であり、歪められるところなく、人物の本然の姿がもとめられ、開発せられ、生活せられていただけのことなのである。特に女性時代ということはできない。

コメント

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