よに逢坂の関はゆるさじ:田辺聖子「むかし・あけぼの 下」

期待していたよりも断然面白く、間をあけることもなく下巻に手を伸ばした「むかし・あけぼの」。怒涛の下巻でした。

まず、伊周兄弟が囚われ、中宮が髪を下ろそうとし、中宮はなんとか中宮のままでいられましたが、世の中は道長の世となっていくのでした。

そんな辛い境遇の中でも、中宮定子の周りは笑いが絶えず、帝の覚えもめでたく、中宮には姫宮、若宮ができます。

でも哀しかな。中宮の出産だというのに、時の人道長を憚ってか、有能な僧が祈祷に来ることもなく、中宮のお世話をかって出る人もいないのでした。何せ、道長の娘、彰子が後宮に入ったのです。

それだけではなく、彰子をなんとか中宮にしようと画策され(中宮は一天皇に一人)、定子を「皇后」という位にするのです。

そんな中、定子は第三児をみごもり、やはり天皇には愛されている、と安堵するのもつかの間、出産後に亡くなってしまいます。

このときは本当に哀しかったです。清少納言にとって定子はただの主人ではなく、自分の感性と一番共鳴してくれる人だったのです。そんな人を亡くした清少納言の気持ちを考えると、目がうるうるしてしまいました。

その上、清少納言がやっと一生を共にしよう、と思った棟世まで亡くなるのです・・・

この本の何が面白いって、歴史小説なのにまったく歴史小説に感じられないことです。たぶん、清少納言の一人称で語られ、そのうえ歴史小説には珍しいくらい“説明”が入らないからかもしれません。

あとこの小説の醍醐味は、一貫して明るい雰囲気で満ちているのに(中宮定子の周りはいつも明るいし、清少納言もじめっぽい性格が嫌いなため)、その実、彼女たちの運命は下っていくばかりのところでしょうか。それを「もののあわれ」というのかは分かりませんが、それに近いものを感じました。

決して“運命に翻弄されながらも、たくましく明るく生きる”という感じのよさではなくて、“とても明るいのに、現実社会的には悲しい運命に翻弄されている”切なさの良さでした。

夜に関する良い言葉を二つ;

…(中略)…実際、夜の乏しいあかりのもとで逢う人は、容貌よりも、気配のいい人が好ましい。ものいいぶり、身じろぎ、しぐさ、――それがかえって昼間よりはっきりわかり、夜というのはおもしろい。美しい男や女は昼間のもの、美貌だけが自慢で、気配の劣る男女は、夜には会えないものである。
 夜美人というが、夜美男というか……。
 「夜まさり、ということはあるものですわね」
 と私は微笑する。

p73

 みんなが話に夢中で加わる心はずみを喜ばれるようである。
 「夜まさりするものは何?」
 と、(中宮)また問を出されて、人それぞれの答えから、その才気や性格のちがいを楽しまれるらしい。
 「夜目のほうが、美し思えるもの……」
 「濃い紅の、掻練の艶でございましょう。灯に映えて、つやつやして氷みたいに光りますもの」
 という人もあれば、
 「髪の美しい女。黒髪に流れる灯の色、というのは、昼間よりずっと美しゅうございますわ」

p199-220

ちなみに、簡単に感化しやすい私は、これを読み終わってから「枕草子」を求めて本屋に行ったけれど、古典文に一気にくじけたのでした。

(田辺聖子 「むかし・あけぼの 下 小説枕草子」 昭和61年 角川文庫)

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