Mrs.Charbuqueがどんな顔だったのか知りたい:Jeffery Ford “The Portrait of Mrs.Charbuque”

今年初の読了済の本は、はるか昔のFigaroに載っていた”The Portrait of Mrs.Charbuque”。
章が細かく分かれているせいか、すいすい読むことができた。

舞台はニューヨーク。といっても、ビルが建ち並ぶニューヨークではなく、cabといったら馬車(確か)、オスカーワイルドの”The Portrait of Dorian Gray”が最近出版されたような時代のニューヨーク。

主人公は画家Piambo。もっぱらお金持ちのパトロンの肖像画を描いて生計をたていて、ある意味成功している画家である。そんな彼が、肖像画に嫌気がさし始め、芸術品を描きたい、と思った矢先にとんでもない依頼が舞い込む。

その依頼主はMrs.Charbuque。彼女の肖像画を描けば法外の値段の褒賞を与える、というものだった。
ただ普通の依頼と違うのは、彼女はスクリーン(衝立)の向こう側にいて、Piamboは彼女を見たり触ったりすることができないまま、彼女の肖像画を描かなくてはいけない、というものだった。
そしてその法外な褒賞とは別に、もしPiamboが彼女の姿形を写し取ることができたら、更に賞金を与えるという。

はじめは拒否しようかと思ったPiamboだったが、友達であり画家でもあるShenzに「この依頼を受け、とりあえず肖像画を描いたら、賞金がもらえる。そのお金があれば、他の肖像画の依頼を受ける必要もなくなり、それで芸術品を描くことができるのではないか?」という勧めを受け、この依頼を受けることにする。

こうして、Mrs.Charbuqueとの対話が始まり、Mrs.Charbuqueは自分の話を始めるのだった。
そのMrs.Charbuqueの話の中で、なぜ彼女がスクリーンの後ろにいるようになったのかも明かされるのだが、この話はそれだけで済まずに、この二人の対話の外では連続殺人事件が勃発したりだとか、Mrs.Charbuqueの旦那が現れてPiamboの命を脅かしたりするのだった。

スクリーンの向こう側の人の肖像画を描く、という題材自体が面白いのだが、時代背景と淡々とした文章と話の流れ、絵ができあがっていくプロセス、などなどが入り混じって不思議な雰囲気な、ノスタルジックな感じを醸し出している気がする。

Mrs.Charbuqueが最後の方に語る、なぜ自分の肖像画を描かせるのか(しかも物語の中盤でそれ以前にも、多くの画家が依頼を受けていたことが分かる)というのは、さらっと描かれてはいるが、この物語の中核となるものかもしれない;

“In a world ruled by men, a woman’s looks are more important than her moral character. Women are to be seen and not heard. That is why my audience was always so enchanted and somewhat afraid of me. I had attained great power as a woman simply because I was invisible yes possessed something men desire: knowledge of their fate, their destiny. I will not join the world until my outer form and inner being can be perceived at once, each equal to the other. So I wait, and test the waters now and then by hiring a man to show me what he sees.”

p272

個人的に、画家を夢見ていた時期があった私としては、少年Piamboが素晴らしい絵を見て”あのように美しい絵を描きたい”と思ったところなどは、とても共感が持てた。

とりあえず、新しい年のスタートをきるには良い小説だった。

(Jeffery Ford, “The Portrait of Mrs.Charbuque” 2003, Harper Perennial)

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