表紙の絵が長親だとしたらかっこよすぎやしないか:和田竜「のぼうの城」

本やらCDやら漫画やらを、いわゆるジャケ買い、あるいはジャケ借り(本を図書館でとか)をしてしまう傾向が、私には色濃くある。本なんて幼少の頃から挿絵が自分の好みのものしか読まなかったし。最近の例であれば「心霊探偵八雲」シリーズなどそれに匹敵する。

今回の「のぼうの城」もまさにそれで、本屋に積まれているのを見た途端、「オノ・ナツメだぁぁああ!!」と勢いこんで買いそうになった。でも金欠だった当時、「いやいや、表紙だけで買うってだけの余裕はうちにはありませんよ」と自分に言い聞かせその場を後にしたのだ。

そうこうする内に、その本が“表紙だけ”ではない証拠に、本屋での山は高くなり、「売れてます!」だの「面白いです!」のあおり文句がついて、大変の売れようのうようだ。

うむむむ・・・これは表紙だけではないみたいだゾ、と思う反面、そんな人気商品を買う気がせず。
と二の足を踏んでいた天邪鬼だが、ある時旅先に本を持っていくのを忘れてしまい、しぶしぶ買って(でも内心、超ウキウキ)、時間つぶしにカフェで読み始めた

ら、

うわぁぁぁああああああああ!!!!!!!!!面白い~~~~~~~!!!!!!

ページをめくる手を止められず、あやうく電車に乗り遅れそうになった。

時は戦国。豊臣秀吉がもう一歩で天下統一となる頃。最後まで粘る北条氏を倒さんと小田原に向かわんとする時。その北条氏の配下にある忍白を攻めよ、と秀吉は石田三成に命令するのだった。ところが実は、忍白の城主成田氏長、北条氏の小田原城への出兵要請に従いしながらも、秀吉に通じていて、忍城を発つ時臣下に秀吉軍が来たら速やかに城を受け渡すように、と命じるのだった。

さて、タイトルにもなっている“のぼう”というのは、城主の従兄弟の長親のことで、図体がでかいだけでまったく役に立たない。農民にまで“(でくのぼう=)のぼう様”と呼ばれる始末だったのだ。
のぼう様もいいが、何せ周りを固める豪胆なる武将達がものすごく良い!

武を誇り長親の幼馴染でもある正木丹波守利英、豪胆な柴崎和泉守、自らを毘沙門天の化身と名乗る酒巻靱負が本当にいい味を出している。

個人的には正木も捨てがたいが和泉がいい。ちょっと話を先どって最後のシーンを抜粋すると;

「和泉殿。」
 と、女の声が飛んできた。
「いっ」
 和泉が恐る恐る馬上でふり向くと、若い女が非常に不機嫌そうなようすでつかつかと歩み寄ってくる。…(中略)…
「ほらごらんなさい。やはり申し上げた通り、負け戦ではございませぬか。これでもう戦はおしまいですからね」
…(中略)…馬上の和泉は、靱負が初めてみるような弱腰でやり込められている。
「誰ですそれ」
 靱負がいぶかしげに問うと、
「女房だ」
「あれま」
 靱負は呆れるほかない。…(中略)…
「丹波の野郎にいうんじゃねえぞ」
 和泉は靱負ににやりと笑うと、片手で軽々と女房を馬上に引き上げ馬首を巡らすや、
「あばよ」
 どっと馬を駆った。

p329

な~んてところを見ると、和泉!!!と思ってしまうのだ。

・・・話は元に戻すと、もちろんこの3人は城を明け渡すのには反対なのだが、城主の命令であること、そして秀吉軍の大きさを考えたら従うしかない。

とここまで読んでおいて、家に着いてしまった私は、その後図書館に返さなければならない本に追われて、しばらく放置。再び手に取ったのは、やっぱり旅路だったのだ。
というわけで、電車の中で一気読みした内容は。

さて城を明け渡そう、とした時に、三成軍の使者がものすごく不遜な態度でムカつく条件を言ってくる(どうやらそれは三成の策略だったようだが)。武将達がぐっと我慢している中、突然、「戦をする!」と言い出したのがのぼう様だったのだ。

それには驚いた武将達だが、元より受け渡す気はさらさらなかった者たち。すぐさま同意する。反応が心配だった農民たちも、「のぼう様が言うんだったらしょうがねぇなぁ」というノリであっさり快諾してしまう。

ここから怒涛のような展開、戦いの場面となっていくのだ。

結局のぼう様は愚者だったのか智者だったのか分からないが、どちらでもあったのだろう。智者が愚者のフリをしていた、ということでは決してないように思うのだ。人を懐柔できる“愚”の部分と、その掴んだ人の心をいざという時に使える“智”の部分が、うまいこと長親の中で配分されているような気がする。それが長親の“才”だったのだろう。

かくして、忍城が唯一秀吉軍によって落とされなかった城となったのだ。

(和田竜 「のぼうの城」 2007年 小学館)

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