やっぱり沖田総司はよく描かれるのね:浅田次郎 「壬生義士伝 上」


これまた「読書会」なるものに行って紹介された「壬生義士伝」。
どうにもこうにも、新撰組って読めば興味があるけれども、自分からすすんで手を伸ばさない分野だったりする。
だって哀しいんだもの。
でもこれを勧めていた方がそこらへんの新撰組ものと違って、“幕府/世の中のために戦う”とか“武士の生き様/死に様”について描いているのではなく、自分は死にたくないから戦う、そして妻子を食べさせるために戦う、といった人生を歩んだ新撰組の隊員(っていうのか?)を描いている、と言っていたのを聞いて、面白そうだなぁ~と思って借りたのだった。
折しも大河ドラマは坂本龍馬(観てないけど)。龍馬と相対していた新撰組を読むのもなかなか乙かと
なーんて軽く思って読んでいたら、やばいやばい。

すっかりのめりこんでしまった。決してエンターテイメント的な面白さじゃないけれども、ぐいぐいと引き込まれていく。

やっぱり幕末、新撰組だから人々の無念があちこちで出てきている。
でもだからこその「武士とは何か」、「義とは何か」がよく出ているのだと思った。

と感想はこのくらいにして、中身を語ると主人公は盛岡南部藩を脱藩した吉村貫一郎。
鳥羽伏見の戦いを切り抜けてきて、満身創痍のまま盛岡南部藩蔵屋敷にやってきたところから話が始まる。
この物語の構成が面白くて、この導入部分は第三者の目線で書かれているが、次からはちょっと変わった趣向となっている。

蔵屋敷に入ってから、貫一郎は蔵屋敷差配役を務める大石次郎衛門に切腹を命じられる。
その切腹を命じられてからの貫一郎のつぶやきと、誰かが貫一郎について語っている言葉とが交互になって構成されているのだ。
この語り手の聞き手は誰なのかは、上ではまだ分からないのだが、時は大正時代。遠い昔を思い出す形で話が進んでいる。

語り手は、まず吉村と同じ時に新撰組に入隊した者、盛岡南部で吉村に教わっていた者(吉村の子どもと同い年だったので、子どもの方がよく出てくる)、大政奉還後に新撰組に入隊した者で吉村が世話役として世話していた者、それから新撰組幹部の斎藤一。
ちなみに斎藤一の話は(上)では途中で終わっている。

こんなにも新撰組やら幕末が好かれる理由ってのは、今までもその手の本を読むたびに実感する。
幕末といっても、引き合いに出されるのは龍馬だとか、大正まで生き延びなかった人たち。
となると、電光石火のように短い生涯の短い期間の中で大業を成し遂げた人の生きざま、というのが今の人たちの心をうつのだろう。

 御一新のこのかた、西洋の医術ってのがすっかり進歩して、人間は長生きになった。そのぶんだけ人生が間延びしちまってよ、ここに飯を食いにやってくる明治や日大の学生が、あのころの俺たちと同じ齢ごろだなんんてとても思えねえ。ガキだね、まるで。

(p53)

と本書にあるが、確かに、人生が伸びた分、この時代と“濃さ”が違う気がする。
だからこそ、濃い時間を過ごしてぱっと散ってしまった新撰組に魅かれたりするのだろう。
でも本書の魅力はそれだけじゃない。

結果論としたら刹那的な時代だったかもしれないけれども、主人公は長く長く生きたい、と思っていたし、大義のために戦うのではなく、いうなれば生きるためのお金を欲しくて生きていた。
現代の人とは根本的な欲望と同じだけれども、時代がそうさせてくれなかった、という不条理さがよく出ている。

な~んてごちゃごちゃ書いてきたが、早く(下)が読みたいのでここらで止めます。
新撰組とか幕末の魅力とかは考えれば考えるほど、長くなりそうだしね。


浅田次郎 「壬生義士伝 上」 2000年 文芸春秋

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