利休だけが関西弁しゃべってないのはおかしくないか?:山本兼一 「利休にたずねよ」


本屋さんでたまたま見つけて、面白そうと思って“読みたい本リスト”に追加した本。
図書館で予約待ちしてやっと巡ってきたのに、どうしてもその週に借りに行けず、次に回ってしまい、もう一回予約、ようやく手にした、という本だったりもする。
どうしても同じ時代で、しかも交流のあった人だっということで、前に読んだ長谷川等伯についての話「松林図屏風」と比べてしまうが、それに比べて断然こちらの方が面白かった。

趣向自体がちょっと変わっていて、利休の切腹の日、切腹の直前から話が始まり、そこからどんどん時間が遡っていく構成になっている。
さながら映画の「メメント」みたい。
アイディア自体はそこまで斬新じゃないかもしれないけれども、大体こういった構成となると、視点は変わらずにいるのが主のような気がするが、本書に関しては、色んな人の視点となる。
もちろん利休や秀吉の視点は、何度か出てくるが、時には全く利休がメインとなっていない章もある。

それが話の幅が出来て面白かった。
そして最後の章は、利休の切腹が終わった直後、というのも割と面白かった。
なんとも不思議なことに、利休と秀吉への印象が読み進むうちにどんどん変わっていく。
最初の方は、秀吉はとことん嫌な奴だし、利休も鼻持ちならなくて、どっちもどっちだな、といった印象を受けるが、どんどん二人の印象が良くなる。秀吉は俗物な趣味であっても、その中に王者のセンスが光っていて、人を惹きつけるものがある。利休は温厚な人で、「美」へのセンスは抜群なものであり、それでいて「茶」はとことん個人の安らぎのため、と位置付けている。
“読み進めると”ということは、つまり利休と秀吉の関係が良好な時へと進んでいくと、ということなのだが、「こんなお互いを理解し、尊重しあっていたのになぜ・・・」という気持ちになっていくということは、この構成の成功なんではないかと思った。
もし逆だったら、利休や秀吉の良かった時代が褪せてしまう。

しかもドロドロした雰囲気で終わってしまって後味も悪かったと思う。
と概ね面白かったのだが、一点あまり好きでないところがあった。
その一点に触れる前にあらすじを書くと…

利休が有名になるにつれて、不遜な態度を取るように感じて、秀吉は面白くない。
なんとか利休を陥れようと、いちゃもんをつけ堺へ追放、そして切腹を命ずるに至る。

といったのが逆向きに描かれているのだが、そこの根底に出てくるのが、利休が手放さずに持っている緑釉の平たい壺。

秀吉の目に留まり所望されるが、決して首を縦に振らない。
それは利休にとって大事な女の人の形見だったのだ。

ということで、その女の人は誰ぞや、というのが最後まで分からず、ちらちら出ることになる。
簡単に結論を書いてしまうと、人売りに出された高麗の高貴な女の人の形見だった。
まだ青年の利休は恋に落ちて、その女性を連れて逃げだそうとする。しかしすぐに追手に捕まり、人の手に渡るくらいなら、ということで殺してしまう……という謂れのある壺だったのだ。
実は気にいらないのがここの部分で、その女性と茶の繋がりをもっと明確に描かれていたら良かったものの、なんか薄っぺらい感じがして俗っぽい感じがしてしまう。「美」を崇高なものとして崇め、それを追求していっている割には、俗っぽい感があると台無しな気がする。

しかも、切腹前にそれが出てくると興ざめだった。
男性が読めば、そういう初恋の人=「美」で忘れられない、といったくだりは面白く読めるのかしら…?とチラリと思ったけど、とりあえずそこは不満だった。

ま、概ね構成だとか、茶道をあまり知らないので、今の形になっていった経緯が分かって、そういう部分も面白かったけどね。


山本兼一 「利休にたずねよ」 2008年 PHP研究所

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