またもや絵がぴったり:江國香織 「すきまのおともだち」


そもそも「ホテルカクタス」を読みなおしたのが本書「すきまのおともだち」を勧められた時に、“「ホテルカクタス」みたいで面白い”と言われたからなのだが、さてさて読んでみたら、成程雰囲気的には「ホテルカクタス」に似たお話だった。そして面白かったのもしかり。
ただ「ホテルカクタス」とは違って、どこか寂しさを感じたし、なんだか深く考えれば考えるほど、ちょっと怖い話のような気がした。

私がそんな方向に想像してしまってるからだろうけど。
どんな想像してしまったのかを語る前に、さらりとあらすじを述べると、主人公の「私」は女新聞記者で、ある時取材で見知らぬ街にやってくる。
仕事も終わり、恋人(江國香織が“恋人”と書くと、非常に優しい雰囲気に感じられるのは何故だろう)に葉書きを書いて投函しようと、郵便局を探しつつ街を探索していると、明かに今までいた街とは違う所に出てしまう。

そこで“女の子”に出会い、彼女が一緒に住んでいる“お皿”に車で郵便局に連れて行ってもらう。
郵便局を見てはっきりと、今までいた街と違うと確信した主人公は、途方に暮れてしまう。
そんな主人公を“女の子”と“お皿”はお客様としておもてなししてくれるのだった。
そんな生活に慣れてきたある日、唐突に主人公は元の街に戻る。
戻ってみると1秒も経っていないのだった。

これで終わりかとおもいきや、その恋人と結婚し、しばらくするとまたもやこの世界に飛んで行ってしまった。
そうして何度かその世界にいくことになるのだが、“女の子”は女の子のまま成長しないし、“お皿”は相変わらず動きまわったりしゃべったりする。
なるほど、大人向けの童話といったらそれまだでだし、“女の子”に名前がなく、世間一般的な“女の子”を体現しているものとして描かれているのは、「ホテルカクタス」に通じるものがあるかもしれない。

でも「ホテルカクタス」と違うのは、きゅうりとか帽子とか2のように、無生物ではなく、“女の子”という生物、人間であること。そうなると事情がちょっと違って、なんでこの子が“女の子”として存在しているのか、そもそもこの世界はなんのか、とあれこれ想像してしまう。
女の子は;

「はじめから、ひとりぼっちだったの…(中略)…もちろん、おんなのこっていうものには、みんなパパとママがいるわ。…(中略)…でも、あたしはひとりだったの。この家のなかで、いまとおなじようにね。」

(p22)

と言っている。
また女の子と主人公が出逢う少年も;

「俺の憶えている限り、両親はすでにいなくて、アニキだけがいた。おかしいと思うかもしれないけど、アニキの記憶でもおなじなんだ。つまり、アニキが生まれたとき、そこに両親はいなくて、弟の俺だけがいた」

(p120)

といっている。
つまり、ここに出てくる子どもたちは、両親もおらず気付いたらここにいて、しかもこの状況が『おかしい』と思ったり、普通は両親がいる、という一般常識を持ち合わせている。
そうなってくると、“女の子”だの、この兄弟だの、ただのメタファーというより何か事情があるような気がしてならなくなってくる。

で、単純な私が想像したのは、“女の子”は死んでしまっているのでは!?ということだった。だから年を取らないんじゃないか?と。

ま 本当にそんなオチだったら、あまりに陳腐だし、そもそもこのお話には、そういう説明が蛇足になるのは分かるけど、あれこれ想像してしまうのだった。
そんな想像を膨らませられてしまう余地のある小説だから、「ホテルカクタス」と比べてちょっと怖いな、と思ってしまった。


江國香織 「すきまのおともだち」 2005年 白泉社

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