天才というのはやっぱり凡人にはちょっといけすかないな:司馬遼太郎 「空海の風景 上」


去年の大河ドラマが坂本龍馬だったし~ということで司馬遼太郎、ではなく。
歴史小説は割と好きな私ですが、司馬遼太郎は苦手だったりする。「竜馬がゆく」なんて1巻で挫折したし。
なんというか、上から目線のような文章はどうも馴染めない。吉川英治が好きなくらいなので。
ではなぜ「空海の風景」なのか。空海に興味があるから、でもなく。

母が読書会なるものを友達としているらしいのだが、その課題図書が「空海の風景」だったのだ。
本を準備するのが遅く、Amazonで頼んだら下巻だけ来てしまい、上巻はいくら待っても来ない。ちなみに本屋にも下巻しかなく、上巻がなかったらしい。
仕方ないので下巻から読み始めたのだが、下巻を読み終わっても尚来ない。
どうなってんだ!ということで、Amazonの発送状況を見てみたら(もちろんそういうのに疎い母の代わりに私が)、カードの不備で発送すらされていなった……
ということで、またもや本屋で検索をかけて、上巻売っているところめがけて、次の日の朝、開店時間にあわせて家を出ていったのだが。
といったいわくつき(?)の本で、母が下巻が面白い面白い、というか母が語る下巻の話を聞いていると、上巻は一体なにが書かれているのか?と思いつつ、あまりに面白いというのと、通勤に持っていく適当な本がなかったので読んでみることにした。

下巻は歴史で習うような空海のことが書かれているようなので、いったい上巻では何が!?と思ったら、空海の生まれ故郷の由来や、空海の家の由来や、仏教/密教の話と、空海が唐に渡ったところまでの話だった。
歴史に残る人だからまぁ そうだろうけど、空海ってすごい人だったらしい。
非常に賢いのはさることながら、想像性/創造性に富んでおり(なにせ詩などもぴかいち)、しかも陽気で“ねばっこい”人だったようだ。

空海もさることながら、密教の知識がなかった私としては、密教自体もびっくりだった。
仏教といえば禁欲的なイメージだが、密教はまったく違って、性欲まで肯定するような、人間の欲というものに大変忠実、というか、欲=生ということで肯定的な宗教らしい。
そんな密教にぴったりな人が空海、というのだ。
空海と比べられる最澄は、空海とはまるで別で、聡明さで言えば空海と並ぶだろうが、非常に勤勉で、真面目な人であったらしい。

母はしきりに「アマデウス」のモーツァルトとサリエリみたい、と言うが、上巻を読む限り、最澄のかわいそうなところは、サリエリのようなずる賢さはなく、ひたすら純粋だったところかもしれない。
と書くところから分かるように、私は空海よりも最澄の方が好きになった。
最澄は今のところ、ほぼ出て来ないが……

なにせ空海はアクが強すぎる。
なにはともあれ、「運も才能の一部」というのを体現するかのように、空海はただ賢いのではない。
空海が華ひらくようにと運気が絶妙なタイミングでやってくるのだ。
何よりも、乗り遅れた遣唐使の船が、暴風雨で破損し戻ってきた、というのにそれが表れていると思う。
さて、本書の面白いところは、いわゆる“小説”的な書かれ方をしていないところだ。
まるで司馬遼太郎の随筆のように(「空海とわたし」的な)、司馬遼太郎が空海の出身地に行ったシーンが挿話として入っていていたり、空海についてと、司馬遼太郎の考察が連綿と書かれている。
時折

 最澄の遠く小さな影をみて、空海はどう評価したであろう。
 ここで小説として描写すれば、
「あれが内供奉十禅師の最澄だ」
 と、空海の背後でささやきかける人物を設定しなければならない。声にとげがあった。そのとげのために、宮廷の大人たちからかならずしも好かれていない若者である。
 橘逸勢という儒生だった。

(p230)

となっているのが割と面白かった。
なんにしろ、上巻ばかり売れて下巻が売れ残っていたのがよく分かった。
多分、上巻で挫折する人が多かったのであろう。。。という感じの固さだった。
頑張って下巻も読むぞ…


司馬遼太郎 「空海の風景 上」 1978年 中央公論新社

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